第三章・トーキョー・ウォーターワークス
第三章・第一節/奇跡の大水道・玉川上水路
1992年(平成4年)、新たな我が家は渋谷区本町6丁目33番地、京王新線の幡ヶ谷駅から徒歩数分の場所に居を構える。甲州街道の真下に通る京王新線幡ヶ谷駅から北側の下町のように活気のある六号通り商店街を抜け、我が家に着くまでには一カ所だけ信号のある大通り、通称"水道道路"を渡ってすぐ、隣が帝京短期大学と言うロケーションである。
この水道道路にはオレの暮らした六号通りを含め、隣駅の笹塚の十号通りまで続く連番の道が横切っている。ちなみにこの水道道路と呼ばれる区間は西新宿から環七の代田橋に至る4kmほどのほぼ一直線の道である。途中、十二社通り/山手通り/中野通りをまたぎ、甲州街道から一本入ったところにある新宿から環七方面への抜け道、と言った印象である。
京王新線幡ヶ谷駅。手前は甲州街道、左が新宿、右が八王子方面
この水道道路は1923年(大正12年)、突如襲った関東大震災により壊滅的な打撃を受け、水路としての復旧を断念せざるを得なくなった元玉川上水・新水路跡地に作られた道路なのである。では新の前に旧・玉川上水はいったい何処にあったのか、と言うと、すぐ隣を走る甲州街道(国道20号線)脇であり、この幡ヶ谷と言う地自体が新旧・玉川上水路と密接な関係を持つ地なのである。ではまず、この新旧・玉川上水について知っておこう。

玉川上水は今から350年ほど前の1653年(承応2年)、武蔵野地区の新田開発と江戸市民への飲料水供給のために作られた、多摩川の羽村取水口から四谷大木戸までの43kmに渡る人工水路である。その名はこの水路建設の全責任を負った、江戸で土建業を営んでいた玉川庄右衛門/清右衛門兄弟(玉川性はこの功績により幕府から頂戴したもの)の名に由来する。また工事期間は僅か半年で、幕府(当時徳川家綱)が江戸市民の水不足を早急に解決しなければならない状況だったことが良く解る。現在玉川上水は都心部がほぼ暗渠化されているが郊外/水源に向かうほどその姿を地上に現す。西武線には玉川上水と言う名の駅もあるのでご存知の方も多いかも知れない。また、名前のせいで多摩川と混同されている方もいるかも知れない(ちょっと前までのオレなんかそうだったケド)が、多摩川を水源とする玉川と言う名の人口水路なのである。ちなみに旧水路は羽村から拝島、小金井、三鷹などの多摩地区を通り、世田谷、杉並、渋谷の甲州街道近辺を通って新宿の淀橋浄水場へと注ぐ経路、新水路は杉並区内で甲州街道の南側へ行く旧水路とは逆に北側に設けられた。なぜ僅か4kmほどの新水路が必要だったのかと言うと、1886年(明治19年)にコレラが大流行してしまい、水質悪化などで玉川上水の衛生面の見直しが必要となったために1903年(明治31年)に近代水道として新水路が作られたのである。ところが、高い土手を作ってその中央部に水路を設けた新水路は1921年(大正10年)に起きた地震に続き、2年後の1923年(大正12年)の関東大震災で壊滅的な打撃を負い、復旧が極めて困難となったために使用を中止、水路は一時的に旧水路が使用され、その間に甲州街道下に埋設管形式の新水路が建設され、1937年(昭和12年)に完成。土手の上で朽ち果てた新水路は当初遊歩道/緑地化される予定だったが、戦争の激化などを考慮した結果道路化されることになり、現在の水道道路が出来たのは昭和30年代に入ってからのことである。
.....で、結論から言うと、オレは幡ヶ谷に引越した1992年(平成4年)から明大前に引越した現在まで、常に新旧玉川上水沿いに暮らしているのである。しかも、今住んでいる所はまさに新旧の水路が分かれた場所で、その前にいた幡ヶ谷から新玉川上水を上り、旧水路にぶつかった場所だったことは、当然だが不動産屋にも聞かされていなかったことだ。

旧玉川上水は現在杉並区よりも都心部ではほぼ暗渠化されている。ここでは西部に関して書くことはしないが、京王線代田橋駅付近から同笹塚駅付近まで、僅かながら開渠となっている部分があるのでそこから最終地点へと向かってみることにする。ちなみにこのあたりは中学校が近かったこともあり、当時(1970年代後半)のオレの行動範囲内である。
この先から開渠となる玉川上水都心部を、甲州街道と井の頭通りが交わる松原交差点付近にある和泉給水所から辿ってみよう
上の写真の撮影位置から振り返ったところ。給水所を出た水路は甲州街道(写真右手)沿いに建つ東放学園の前を進む。むしろ、水路のある部分を避けて建物があるため、不自然に広いスペースが存在する、と言った方が正しい
東放学園の前を過ぎると鬱蒼とした立ち入り禁止区域となり、ここが水路上であることが解る。水路は写真右手、甲州街道の反対側に見えるShellのガソリンスタンドのある方向へ渡る
甲州街道の歩道橋上から水路に沿った反対側を望む。ガソリンスタンドの手前の植え込みなども含め、不自然に大きなスペースが取られていることが解る
.....な〜るほど。どうりで歩きにくいわりに広いスペースなワケだ.....
甲州街道沿いに流れて来た玉川上水は基本的に23区内では暗渠と化しているが、和泉給水所のある京王線明大前駅付近から甲州街道沿いに進んだ後、次の代田橋駅(甲州街道/環七交差地点)で突如その姿を現す。しかしここは当時のまま、と言うよりも1986年(昭和61年)に"再現"と言う形で水を引いたものである。鬱蒼とした木々の下に深さ5mほどの水路が現れ、京王線代田橋駅の真下を通って環七方面へと抜け、再び暗渠となる。付近には和田堀給水所があり、このあたり一帯が"水の都"と言うイメージの街造りがされている。
ガソリンスタンドの先を甲州街道沿いに進むと、環状七号線/代田橋の大原交差点手前あたりで右手に鬱蒼とした森林地帯が現れる
入り口部には玉川上水の説明板
突然現れた玉川上水路の水門。今歩いて来たその道の下を、玉川上水は流れて来ていたのだ
それまでの風景からは想像もつかないような、まるで渓谷のような景色が広がる。1986年(昭和61年)に一旦暗渠化されていた水路を再現した。上方は京王線の代田橋駅ホーム
京王線代田橋駅下を過ぎたところにあるゆずり橋。赤レンガ造りのレトロなデザインだが、これは実は1991年(平成3年)に新設され、地元の小学生らによって名付けられた新しい橋である
ピース!。.....あたりまえのように川で遊ぶ子供達の姿が妙に嬉しい
ゆずり橋の先から玉川上水路と枝分かれするように続く遊歩道
一直線に続く遊歩道を進んだ先は井の頭通り。合流地点には橋の跡もある
遊歩道の向かった先は和田堀給水所。つまり、この遊歩道は玉川上水を和田堀給水所へと導く分水路跡だったのである
暗渠は玉川上水第一緑道と言う遊歩道となり、環七を渡って京王線笹塚駅方面へと向かう。昭和2年に造られた稲荷橋のあたりから再び開渠となる区間があり、ここから笹塚駅までの約150mほどの区間は左右は柵が設けられているが、玉川上水自体はコンクリート護岸を施されておらず、まるで都心とは思えないほどの自然な空間となる。
玉川上水跡の遊歩道を進むと間もなく環状七号線に突き当たり、環七の下に歩行者用の地下通路がある。おそらく歩道橋の建設は難しかった、つまり、玉川上水路はこのさらに下を流れている、と言うことだ
環七を渡ったところ/地下通路の出口には大原橋が架かる
大原橋の先はゴム・チップ舗装の遊歩道となる。子供が転んでも大丈夫なように、との配慮だろうか
ゴム・チップ舗装だからか、なんだか足元が温かい
大原かるがも公園.....遊具も充実した遊歩道脇の、草が生い茂る用途不明の狭いスペース。.....沼だな.....
1927年(昭和2年)建造の稲荷橋。ここで一旦遊歩道は終わり、再び開渠となる
稲荷橋までの暗渠区間はコンクリート水路だが、ここからは完全な自然河川の姿を止める。そして、ここは代田橋付近のような再現ではなく、350年前の玉川上水路そのままの姿なのである
堰がちゃんと残っている
玉川上水は笹塚駅前で大きく右にカーブする。ここに"南ドンドン橋"と言う名の橋の遺跡があるが、川筋が大きくカーブしているために、水かさが多く流れが激しい時には大きな音をたてていたことから来ているそうだ。このあたりはさすがに大勢の人が行き来する駅前なので一旦暗渠となるが、すぐにまた開渠区間となる。ここは上空に生い茂る木々も無く、土手には花が咲き、まるで"春の小川"でも見ているかのような素晴らしい風景に触れることが出来る。
京王線笹塚駅を目前として一旦暗渠へと戻る。写真左手には高架上の線路があり、ここで玉川上水路は大きく右へ向けてカーブして行く
暗渠区間の手前の橋は二号橋
写真奥、左手から斜めに進んで来た玉川上水は右手の京王線線路手前で一旦平行に進む。が、決して線路を避けるためにこうなっているわけではなく(350年前に京王線は走ってないからね)、牛窪と呼ばれる窪地の多い地帯を避けるためにこうなっている。手前右手に古そうな橋の遺構が見える
その橋の名は"南ドンドン橋"。.....その名の由来はかつて大雨の後など水量の多い時に、カーブして来た玉川上水の水がドンドンと大きな音を立てていたことから来ているそうだ。何度ここを歩いたか知れないが、この遺構の存在すら知らなかった
京王線笹塚駅前でカーブを描く玉川上水路。この部分が暗渠区間なのは駅前の雑踏を考えればやむを得ない
1947年(昭和22年)当時の笹塚駅付近。丁度笹塚駅の前にある南ドンドン橋を超えると、上水路は急速に大きなカーブを描いて行く
笹塚駅前の暗渠区間を終え、第三号橋から再び玉川上水が姿を現す
写真奥に見えるのが京王線笹塚駅。ここが渋谷区であることを忘れそうになる区間
「ここだけはねえ、昔のまんまなのよ。最近になって奇麗にした、ってわけじゃないの。あたしが生まれた頃のまんま」
.....デジカメ片手に呆然と川面を見つめるオレにそう教えてくれたのはすぐ目の前のSさんのお宅から出て来たお婆ちゃん。彼女は雨の日も風の日も、常に玉川上水と共に生きて来たのだろう。車や電車が走り、高速道路が造られ、大きなビルやコンビニエンス・ストアが出来た今でも、幼い頃と変わらない風景と共に過ごして来たのだ。
「このままずっと変わらないでいてほしいもんだね」
.....同感です。
笹塚橋。右手の標識はズバリこのあたりの地盤が弱いため、路肩に注意せよという意味である
玉川上水は笹塚橋で開渠を終え、玉川上水第二緑道となる。周辺の家は新旧問わずやや高台に建てられている。手前の開渠部から予想すると、土手の両脇に細い通路を挟んですぐに住宅が並んでいることになり、大雨や洪水時には相当な水かさになったことだろう。この後第二緑道は"旧玉川上水遊歩道"へとその名を変える(ちなみに第一/第二緑道は世田谷区、ここからは渋谷区の管理となる)。ここにあった北澤橋は2005年に中野通りが井の頭通りまで伸びたことに伴い、大きくその姿を変えてしまった。が、ここからしばらくは新旧問わず玉川上水の橋が全て現存している区間となる。また北澤橋から旧玉川上水遊歩道となってからは路面が舗装されていない砂利道のままで、また周囲に大きな木が多いことからとても涼しい道のりとなる(助かった.....)。元々このあたり(渋谷区大山町)は川や池の多い場所で、地形は坂だらけの山谷である。自転車でこの辺りを移動した中学生時代は"心臓破りの大山町"と呼んでいたほどだ。
笹塚橋は現在の玉川上水路開渠最終地点。この先、玉川上水路は全て暗渠となる。ちなみにこの水門は元々右手に三田用水への分水を行う役目を負っていた為に、右側の側面のみ幅広くカーブしている
ここからは再び遊歩道、名称は玉川上水第二緑道となる
遊歩道は2005年(平成17年)に開通したばかりの都道26号線(中野通り)を渡る
道路拡張工事により支柱だけとなってしまった北澤橋。ここから玉川上水路は渋谷区(大山町)となる
渋谷区に入ると遊歩道そのものの名称が変わる。ここからは玉川上水旧水路緑道、世田谷区のゴム・チップとは違い、路面は土である
遊歩道の周囲にはこんな遺構が多く残る
多くの橋を過ぎ、玉川上水は京王新線幡ヶ谷駅側を通って再び甲州街道脇へと帰って来る。序章でも触れたが、かつては京王線が幡ヶ谷と初台の両駅区間は地上を走っており、甲州街道/京王線/玉川上水路、の3つが並走していた。現在は京王線/玉川上水が共に地下へと潜り、地上は双方の路跡が遊歩道となっている。地元の人でもどちらが京王線線路跡でどちらが玉川上水暗渠なのか解らない人もいるだろう。京王新線初台駅付近まで来ると、代々木山谷と呼ばれた谷を通る。こちらは宇田川上流の河骨川の水源をかすめる。これまた明らかに小〜中〜高校生時代のオレのテリトリーである。
もちろん、水を見たことは一度も無いが。
1924年(大正13年)に架けられた相生橋。玉川上水の橋達は別項で紹介するが、当時のまま現存しているのが奇跡に近い
こちらは昭和初期に撮影された相生橋の勇姿。こうして見ると笹塚付近の玉川上水開渠部がいかに昔の姿を止めているかが解る
京王新線幡ヶ谷駅が近づくと、路面はコンクリートへ
幡ヶ谷駅近くの西原商店街を横切る水路に架かる二字橋
このあたりは幡代と呼ばれる地域。笹塚方面を振り返った図だが、向かって左側が玉川上水路、右側が地上時代の京王線跡である
この写真は昭和30年代、初台駅を出た京王線が甲州街道沿いに地上へ出て来る場所である。正面に富士急ビルがあり、丁度電車の左側に首都高速4号線工事に関する大きなパネルが見える。そして、線路右側に僅かだがコンクリート護岸された玉川上水路が確認出来る
ほぼ同じ位置から撮影した現在の風景。首都高速4号線が通り、線路は地下へ潜り、玉川上水路は暗渠となった。唯一富士急ビルだけが同じ位置に建つ
山手通りに突き当たると、1964年(昭和39年)製、オレと同い年の伊藤橋がある。が、このあたりは現在首都高速4号線拡張工事中で、伊藤橋は明日をも知れぬ命である
京王新線初台駅付近。緑道脇にはかつてのコンクリート護岸が残る
反対側には地上時代の京王線の線路脇の柵が残っていた。このあたりは玉川上水路と京王線がほぼ平行して通っていた区間
十二社通りを渡ったところの工事現場で、興味深いものが地上に顔を出していた
角筈、と言う呼び名は既に無いのだが、現在の西新宿まで来たところで玉川上水路は完全に甲州街道と一体化する。2003年(平成15年)に出来た文化服装学園の正面玄関手前に広く長いスペースがあり、その下を玉川上水が流れる。また、ここには明治時代に新宿駅構内に造られた煉瓦造りの地下暗渠が一部当時の実際の煉瓦を使用し、モニュメントとして再現されている。
初台を過ぎると間もなく新宿。玉川上水路の先には高層ビル郡が見えて来る
文化服装学院手前の天神橋跡
写真中央奥から来た玉川上水路が甲州街道と一体化する位置
こちらはこの先、新宿駅南口付近で線路下を通る玉川上水路暗渠に使われている煉瓦をモチーフとしたモニュメント。実際の暗渠内部の様子を垣間みることが出来る
旧玉川上水路は千駄ヶ谷橋を通って新宿駅南口方面へ向かい、葵橋の遺跡を最後に暗渠はプツリと途絶える。が、前述の文化服装学園前のモニュメントの通り、ここから新宿駅構内の地下へと続き、現在の都立新宿高校の敷地内へと向かう。ここには旭橋の欄干が保存されており、甲州街道沿いにほぼ真っすぐに続いて来たことが解る。そして新宿高校を過ぎると、そこは新宿御苑である。
千駄ヶ谷橋跡。.....この工事が終わった時、この遺構はこの場所に残るのだろうか
甲州街道裏に続く玉川上水路。前方に初めてビルが見えて来る
現在葵通りと呼ばれる由来は御覧の通り玉川上水の葵橋があったからである
高島屋タイムズスクエア方向から新宿駅南口を望む。南口に架かる陸橋のやや手前の線路下に、前述の煉瓦造りの暗渠となって左から右へと玉川上水が流れている
巨大な新宿駅の地下を通る玉川上水路。駅より東側(写真右手)の流路はこの1947年(昭和22年)当時、既に一部が暗渠化されているように見える
写真陸橋左側の道路下が玉川上水路。ここで水路は明治通りを渡る
前方には御苑トンネル、写真右手に見えるのはのは東京都立新宿高校
新宿高校敷地内には1922年(大正11年)建造の旭橋の欄干が保存されている

....玉川上水路は新宿御苑の測道(昼間は解放)を進み、四谷大木戸の玉川上水水番所で43kmに及んだ水路の終点を迎える。そしてここに、先日オレが興した1964records/bazooka-studioがある。運命とは不思議なものである。
新宿御苑脇の測道
.....辿り着いたのは新宿御苑前にある東京都水道局、旧四谷大木戸、玉川上水水番所跡である。ここが43kmに及ぶ玉川上水路のゴール地点、オレが造ったレーベル、1964recordsは信号ふたつ手前の位置
江戸時代の四谷大木戸の様子

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