第四章・where is 渋谷川?
第四章・第一節/渋谷川の源流を訪ねる
39年間の渋谷区民生活の中で馬鹿なオレが知らずに過ごして来た事実、宇田川、初台川、河骨川、新旧玉川上水路、神田川笹塚支流、そしてそれらにまつわる支流や源流、水源地などの存在。.....あさはかと言えばそれまでだが、こうして調べ、自らの足で検証して歩くことにより、むしろそれまで興味も持たなかった宇田川町や神泉、幡ヶ谷、さらには十二社池の上だの六号商店街だのと言う不可思議な地名の由来や意味を知ったのはタイヘン有意義なことであった。
が、渋谷区民歴39年のオレにとって、未だ"渋谷川"と言う響きがどうにも違和感のままだ。だって、渋谷ってのはビルと坂のある繁華街で、ちょっと中心から歩けば住宅と都市化/緑化による人工的な公園のある区、と言うイメージ。つまり相変わらず「渋谷に川なんか、しかも渋谷川なんて名前は聞いたこともナイ」のままなのだ。
渋谷駅東口。
ハチ公/スクランブル交差点、109やセンター街がある方とは逆側なのでピンと来ない人も多いだろうが、これが渋谷駅付近で姿を現す渋谷川なのである。
1921年(大正10年)の渋谷川。渋谷/東京.....いやむしろここが日本とは思えない光景だ
昭和30年代前半のコンクリート護岸された渋谷川。川面にはゴミが浮き、決して奇麗な川には見えない
.....渋谷川は、ホントにあった.....。
で、ここまで何度も「渋谷区民歴39年で、川なんぞ一度も見たことがない」と書いて来たが、そう言うワケでオレは渋谷川を"地上から見れる下水"としか考えていなかったのである。良く考えればGIG ANTICに行く時も恵比寿guilty(当時)などのlive houseに行く時も渡っているのだが、その時は川では無く完全に下水道としか思っていなかったのだろう。事実、水は常に少なくて汚く、川沿いの飲食店からの汚水が流れ込んでいたようなイメージだった。また、オレの感覚ではアレは渋谷の川と言うより恵比寿の川、並木橋あたりを通って天現寺橋あたりへ行く港区の川、と言う捉え方でもあった。その先が東京湾方面であることは解っていたが、では渋谷駅よりも手前はいったい何処なのか、注ぐ東京湾が前方なら、後方、つまり渋谷川はいったい何処から来ているのか。そのあたりのことはこれまで全く考えたことが無かったのである。
現存する渋谷川でもっとも上流の橋、稲荷橋。右手奥に見えるのは東急東横線渋谷駅ホーム
稲荷箸を渡ると"ギグアン"。.....確かにここには何度か来てる。が、オレの39年間の渋谷区民時代の行動範囲から見て、実は国道246号線を"徒歩で渡る"ってのがあまり縁が無かった、と言える。車で超えると明治通りを走ることになり、渋谷川は見えないのだ
稲荷橋手前の歩道橋上から後方を振り返ると渋谷駅東口ロータリー。正面が東急東横店東館、左手は東急東横線ホーム。今も昔も、東横線独特のデザインは変わっていない
渋谷駅東口と言えば東急文化会館。1956年(昭和31年)完成の、高度経済成長期に於ける繁華街・渋谷の中心的存在であった。中は映画館(全部で4つ)、書店、レストランなどが入っており、てっぺんの丸い部分は五島プラネタリウム。友人達と数えきれないほど遊びに来たが、2003年(平成15年)に解体された
2006年(平成18年)夏現在の東急文化会館跡地の様子。.....何年か前、文化会館内の映画館"渋谷パンテオン"で行われた映画祭に、課長の格好でフライングV弾く仕事で来たのが最後だったっけ(どんなキャリアだよ.....)
.....さて、渋谷川をこの場所から振り返った時、最も自然な線を描くならば真っすぐ延びる明治通りを原宿/表参道方面へ進むこととなる。しかし当然、ここから先で川/水など見かけたことはない。結論から言えば、実は渋谷川は現在渋谷駅から源流までの間が現在全て暗渠化されている。では、その道筋を遡って辿って行くことにしよう。
左の写真は1951年(昭和26年)、渋谷東急東横店東館屋上から原宿→新宿方面を見たもの。JR山手線の線路に平行し、徐々に右へと逸れて行く渋谷川の様子が写っている。右のもう1枚は隣の西館から見た現在の同一方向。渋谷の景観が約半世紀でここまで様変わりしたことは驚きでもある。で、東横屋上からでは良く解らないので地上に降りて見ると、JR高架脇に駐輪場がある。位置関係からして、丁度真逆が渋谷川である以上、この駐輪場が渋谷川暗渠と考えて良い筈だ。渋谷駅は1885年(明治18年)に現在の位置から南(恵比寿寄り)に300mあたりで開業し、1917年(大正6年)に現在の位置に移動して来た。渋谷駅周辺は東急グループが実権を握っており、1934年(昭和9年)に渋谷駅に東急百貨店東横店が開業した。渋谷駅の真上と周囲に位置する東横には東館/西館/南館があるが、実は先ほどの東館だけに地下フロアが存在しない。.....そう、察しの通り、東横東館の真下には渋谷川が流れている為に、地階が作れなかったのである。そして正に東横東館の真前から、高架沿いに暗渠らしき環境の駐輪場が伸びている。
1947年(昭和22年)米軍撮影の1/10,000航空写真に見る渋谷川。太くハッキリとしたラインが渋谷駅(写真下)から表参道方面(右上方)へと伸びている
1933年(昭和8年)完成の東急百貨店東横店東館。丁度真下を渋谷川が流れる
2006年(平成18年)現在の東横東館。道行く人が渡る信号は渋谷川・宮益橋跡。.....ほとんどの人がそんなこととは知らずに歩いている筈だ
御覧の通り、東急東横店東館には渋谷川の存在のために地下フロアが存在しない。が、その悪条件にも関わらず西館〜南館地下に展開する"東横のれん街"は、全国各地の有名食料品を集めた、デパート名物のテナント・フロアの草分けとなった
東急東横店東館の真向かい、JRの高架脇に延びる長い駐輪場。前方の木々は宮下公園
駐輪場は遊歩道のような造りの一本道である。前方左手に見える古い建物群は戦後の渋谷の象徴、のんべい横丁
渋谷川の"生き証人"、のんべい横丁。現在も多くの店が営業しており、終戦直後にタイムスリップしたかのような光景が広がる
駐輪場入り口から約100mほど進むと、駐輪場スペースから左へ曲がる道が現れる。これが実は宇田川との合流地点である。前述の昭和26年の写真にも、この合流地点が写っている
合流地点を左折し、JRの高架を潜って出て来たのが丁度西武百貨店A館とB館の間へ抜ける井の頭通り、つまり宇田川の下流なのである
渋谷川暗渠写真集"Undergound"に、おそらくこの合流地点と思われる分岐点の写真が載せられている。左が宇田川、右が渋谷川本流と思われる
宮下公園脇の歩道橋に上がって振り返るとなるほど、この駐輪場は開渠部分の渋谷川と同じ形状だ
駐輪場はJR線路沿いを原宿方面へと進み、そのまま宮下公園へと繋がる。宮下公園は線路と明治通りの間を進むが、渋谷川暗渠は宮下公園交差点の位置から上の1951年(昭和26年)の写真のようにやや右へ逸れている。現在、その方向にはキャット・ストリートと呼ばれる狭い裏路地が続く。そして明治通り/宮下公園交差点を右斜め前へ渡ると"宮下橋"と書かれた橋柱が残っている。.....ちなみに渋谷川の渋谷駅周辺が暗渠化されたのは1931年(昭和6年)頃。かつてはスクランブル交差点も宮益坂のあたりも渋谷川/宇田川、そしてそれらの川の支流達が流れていたのである。しかし都電(路面電車)や自動車の普及/需要に伴い、細かい支流が行き来する渋谷川は徐々に邪魔なものとなり、徐々にその上にコンクリートの蓋をされて行ったのである。
明治通り脇を入る狭い路地、"キャット・ストリート"。いつからそう呼ばれるようになったのか、語源が何なのか定かではない。"遊歩道で猫が多い""猫の額のように狭い"など名前の由来は様々
キャット・ストリート入り口に残る宮下橋の支柱。.....落書きしたヤツ、消して来い
渋谷川遊歩道、別名"キャット・ストリート"に入ってすぐ右側には渋谷教育学園の渋谷中学/高校/幼稚園がある。そして、実はオレはこの渋谷幼稚園出身である(昭和43、44年度)。現在と同じ敷地内での位置関係はやや変わってはいるが、現在もほぼ同じ位置に幼稚園がある。.....ここでもオレは"川だったとは知らず"、幼児期の2年間を暗渠脇で過ごしていたのである。
キャット・ストリートに入ってすぐ右側が渋谷教育学園。かつては渋谷女子高校と渋谷幼稚園が併設されていた
個人的に懐かしいデザインの送迎バス。神山町の生家から2年間ここへ通っていた。つまり、暗渠化されたばかりの宇田川から下流の渋谷川へと通っていたことになる
幼稚園の前だからか、このあたりでは道路の主役は子供達である。これは今も昔も変わらない
"若者の街"原宿(こう書くと途端にオッサンくさい)の裏通り、渋谷川遊歩道/キャット・ストリートは、現在ファッション・ビルや古いアパートを改造した店舗などが軒を連ねるお洒落で賑やかなテナント通りとなっている。が、両脇の測道よりも中央部分が一段高くなっていたり、道路中央部に植え込みがあったりと、良く見れば暗渠以外のナニモノでもない、と言う痕跡が多く残されている。更に道は不規則にくねくねと曲がっており、道路交差部には現在でも幾つかの橋跡/遺構が残っている。大きなものでは穩田橋、表参道をまたぐ参道橋、そして原宿橋など現在でも支柱を暗渠上に残している。更に、良く周りを見れば小さな支流達の跡がたくさん見つかるのだ。
穩田橋跡。.....このあたりはかつて穩田村と呼ばれた水田地帯であった。いずれ別項で触れるが、隠田は明治神宮の池からの流れが渋谷川へ注いでいた、渋谷川の重要なポイントとも言える地域である
1831年(天保2年)頃に描かれた葛飾北斎の錦絵、富嶽三十六景の中の"隠田の水車"。"春の小川"同様、確たる証拠はないが現在の原宿/渋谷川の姿と言われている
道路沿いの何気ない細道が、渋谷川の小さな支流跡だったりする
やがて渋谷川はキャット・ストリート同様(アタリマエだが)、表参道を渡る
表参道を渡る参道橋跡。道行く人々が気付かない程度に、ひっそりと2本の支柱が建つ
1962年(昭和37年)の、参道橋からひとつ手前の境橋を見た写真。現在キャット・ストリートを歩く若者達はもちろんまだ生まれていない頃だ(いやオレもギリギリまだだ!)
原宿橋跡。原宿橋は1934年(昭和9年)建造だが、最近コンクリートで支柱が覆われた。丁度交差点に位置するため、破損防止だと思われる。が、包んでしまうのは珍しい方法だ
道路中央の一段高くなっている部分は暗渠化当時のまま
路上にあるコンクリート・バーの撤去作業に出くわした。こうして川の名残りがまたひとつ消えて行く
表参道を越えてテナントが並ぶ区間が終わると、外苑西通りに向けて徐々に暗渠は住宅街となり、普通の路地のように静かな道になって行く。そして外苑西通りに出た途端、通りの対岸で突如渋谷川暗渠は姿を消してしまう。このあたりには霞ヶ丘(国立)競技場や東京体育館など、1964年(昭和39年)の東京オリンピック時に使用された多くの施設があり、"臭いモノには蓋をしろ"で始まった渋谷川暗渠化計画に於いて、最も"汚い川があってはいけない場所"だったことは明らかである。
キャット・ストリートは徐々に静かな住宅地の道路へと変わって行く。前方は外苑西通り
外苑西通りを渡った突き当たりはただの壁。ここから写真左手へ続くはずの渋谷川暗渠は、いったん住宅街に飲まれてその姿を消してしまう
忽然と姿を消した渋谷川を探し、外苑西通りを進むと千駄ヶ谷駅方向へと進んだ所にある"観音橋"と言う名の交差点が唯一このあたりが渋谷川暗渠であろう、と思える場所となる。だが周囲に橋の面影は無く、観音橋交差点脇の明治公園(国立競技場の真ん前を通る遊歩道)が川の流れ/渋谷川暗渠のサイズに酷似していることに気がつく。渋谷川に蓋をした理由はまさにここにあった。メイン会場となる国立競技場の真ん前を、汚れた渋谷川が流れていたのである。そして国立競技場の前を横切った後、JRの高架を超えた先に面白いものが見つかる。
観音橋交差点には川跡も橋跡も残っていない
観音橋交差点の先、国立競技場敷地内の明治公園を横切る川跡
ご存知、国立競技場。この写真を撮った、まさにその足元こそが渋谷川暗渠上である
1947年(昭和22年)の国立霞ヶ丘競技場(当時/明治神宮外苑競技場)付近。.....渋谷川はまさにこの17年後の東京オリンピック・メイン会場前に存在していたのである
国立競技場前からJR線の高架を過ぎて振り返ると、高架の一カ所だけが奥まっており、しかも煉瓦作りになっている。実はこれはかつての水路跡であり、更にそこに人が入り込めないように土砂で埋められているのだ。この位置から後を振り返ると、目の前に一段高く見える通りまでが短い児童遊園になっており、その狭さからもここが暗渠であることが解る。しかも、このあたりは地形的に実際の川面からそう高くない。その証拠に、地中に半分ほど埋もれた煉瓦作りの水路跡の形状と、目の前の通りが明らかに渋谷川の橋、と言う条件から、極めて川の底を歩いている感じがする。
高架下の煉瓦作りの水門跡。左には児童遊園。国立競技場は写真右手、高架の向こう側。ここは線路を潜る水門の入り口にあたる
例によって誰も遊んでない児童遊園。突き当たりの階段脇は橋の跡のようだ
狭い児童遊園を進むと、突き当たりに通りに出る階段がある。そして階段を昇った所は明らかに橋の上であった。そしてその対岸は"大京町遊び場"。.....遊べないって。いや、実はここは現在立ち入り禁止地域となっており、草は伸び放題だしブランコは付いてないし(これは危険防止の為だろうが)。陽の当たりづらい、高い建物の真裏に位置する狭い暗渠スペースは現代社会では"危険な廃墟"でしかないのだ。この大京町遊び場のどん詰まりはまたも橋跡、こちらは比較的橋の原型をとどめている。そして、またも道を渡った所に、いよいよ渋谷川源流を辿る道筋最大の"証し"が存在する。
階段を登って振り返ると明らかに橋の跡
道路を渡ると"大京町遊び場"と言う公園スペース。神田川笹塚支流や神田上水助水路暗渠などで見かけた、いかにも新宿区らしい動物型の遊具がある
"危険につき撤去します"の立て札すらなく、ただ肝心な部分が存在しないまま放置されたブランコ。このまま朽ち果てて行くだけなのだろうか
.....暗渠であると同時に、完全な廃墟でもある大京町遊び場。ここにいるだけでトンデモナイ孤独感に襲われる
遊び場を抜けると別の橋。そしてその先には.....
大京町遊び場の対岸にはアーチ状の水門。そしてその奥には弧を描く緑の秘境。.....にしても、いつ取り付けられたものかは解らないがなんと言ういい加減な板の置き方だろう。しかし、ここから大京町遊び場へと水が流れて行っていたことは疑いようがない。この暗渠へ直接足を踏み入れるにはちょっとリスクが大きすぎたので断念したが、外側の住宅街沿いに歩き、路地を入って行く度にこの緑深い暗渠に出逢うことが出来る。反対に暗渠の向こう側の壁は一定の規則に基づいて造られていた。

そしてこの暗渠は突然大きな交差点に出て終わりを告げる。
深い緑色の森と化した暗渠
突然開けたその場所は、またも新宿御苑であった
.....四谷四丁目、外苑西通りと新宿通り、御苑トンネルの交わる場所。結論から言うと、渋谷川の源流はまたしても新宿御苑内、玉藻池/弁天池なのである。つまり、玉川上水最終地である四谷大木戸門とほぼじ位置。.....なんと言うことだろう。オレの40年以上に及ぶ生家、幼稚園、全ての引越先、そして行動範囲が水路で繋がってしまった。暗渠化された直後に宇田川に生を受け、渋谷川の幼稚園に通い、上流の河骨川に育ちつつその水源近くの学校に通い、新旧玉川上水側で暮らした後にその分岐点へと移り住み、そして自らの象徴/活動の本拠地と定めた位置に、最終的に全ての水が集まっていたのだ。

.....「それが"山の手"だ」と言えばそれまでなのかも知れない。が、繰り返し言うがオレはこれまでただの一度も川を見ながら暮らしていない、それも生まれた年にほとんどの川が地中に隠されていたことを、今知ったのだ。オリンピック・ベイビーの、もっともあさはかな男はその事実を前に、ただただ呆然とするしかない。

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