第三章・トーキョー・ウォーターワークス
第三章・第二節/玉川上水旧水路の橋達
.....ま、ハッキリ言ってオレがバカだった、ってことでハナシは終わるのだが、"そこが河川だった"と言うことを前提に考えればそこに橋があることになんの疑問もない。だが本来、橋とは何かを渡るためにあるもの。にも関わらずオレの生活テリトリーの中にあった橋達は何も渡っていないものばかり。下に空間があればそれが橋としての役割を果たしていることも実感出来るが、実際オレが遊歩道や公園内で出逢った橋達は皆"構造上のモニュメント"と言う捉え方だったのだと思う。神山町〜代々木八幡〜幡ヶ谷、と引越して来たオレにとって、おそらく住宅街には遊歩道があって当然/車止め用に橋構造のモニュメントなんかがある、との考え方も否定出来ない。
そして、その考え方はここへ来てようやく覆されることとなった。そうか、この橋達は皆この付近の住民の方々が実際に水路を渡るために存在し、そして現在も残されているんだと言う事実を、今になって理解したのである。.....ゴメンよ、皆。君達は川に架けられた橋だったんだ.....。
ここでは、暗渠/開渠の入り交じる玉川上水路に架かる(あくまでもオレのテリトリー範囲内の)橋達を紹介して行こう。
玉川上水第三公園内の下高井戸橋。左手は甲州街道、写真右手へ進むと井の頭線永福町駅方面となる
永泉寺緑地内。頭上に首都高速4号線、右手に甲州街道を従える
明治大学和泉校舎前の明大橋。玉川上水公園の入り口でもある
こちらは明大前、橋の上を渡る玉川上水.....が、これは1933年(昭和8年)に開通した井の頭線(写真下)の工事によるもので、元々空中を通っていたワケではない
玉川上水公園内の久右衛門橋
「お先にどうぞ」ゆずり橋。管理上の名前、つまり本名は玉川上水一号橋と言う
環状七号線を渡る大原橋。写真右手、ガードレールの下のコンクリート・バーが年代を感じさせる。白ペンキベタ塗りは度重なる落書きの代償
1927年(昭和2年)完成の稲荷橋。中央部が低い、独特の形状だ
京王線笹塚駅付近の二号橋は駅前の暗渠手前部。橋そのものは現在はない
暗渠の遊歩道にひっそりと建つ、しかしひと際キャッチーな名前の南ドンドン橋
第三号橋はオアシスへの入り口
右手に三田用水への分水跡を持つ笹塚橋。笹塚橋以降、四谷大木戸のゴール地点まで玉川上水路は全て暗渠化されている
S字を描く玉川上水第二緑道
かつては玉川上水新水路の笹塚隧道と繋がる支流を持っていた橋の跡。だが渋谷区の橋の記録には名前が載っていない
南ドンドン橋同様、本来の位置とは違う場所に支柱のみが残る1925年(大正14年)製の北澤橋。2004年(平成16年)、中野通りを井の頭通りまで結び、更に国道246号線まで結ぼうと言う都道26号線計画によって移動した
何かにスッポリと覆われたような形状の四條橋
完全に新設されている五條橋
暗渠脇の木々が当時の姿を想像させる
六條橋。支柱も新しく、地中のコンクリートごと1990年代に建て換えられている
こちらももはやモニュメントとしての存在と言える常盤橋
玉川上水路現役時代そのままの姿を保つ相生橋。手前のガードレールが活躍しているのだろう、保存状態も良好
代々幡橋。写真右手の植え込みにオリジナルの支柱が埋められている
山下橋は水車が象られたモニュメント。こちらも植え込み(写真中央)に支柱のみが残る
美寿々橋。.....こうして見るとモニュメントとして再生された玉川上水路の橋達には、特にデザインの一貫性は存在しないようだ
京王新線幡ヶ谷駅付近で商店街を跨ぐ二字橋
珍しい木彫り形式の西代々木橋モニュメント
新台橋とその主。大抵いつ行ってもここで寝てます
玉川上水路が完全に甲州街道と平行する地に架けられていた新代々幡橋跡地。が、記念碑も遺構も何も残されていない
代右衛門橋跡。ここにも橋の形跡はなく、僅かに中央部が盛り上がっているだけ
幡代橋跡。渋谷区立幡代小学校(写真左手)への専用橋とも言える橋だったが、大正初期に役所が"はたよ"と名付けたのを学校側が"はたしろ"に読みを変えさせたと言う過去を持つ。現在は何も残っていない
改正橋は京王新線初台駅前の通りの名"改正通り"に由来する。遺構や記念碑はない
河骨川源流を近くに持つ、橋があった記録はあるが名前の載っていない橋跡
山手通りに架かる伊藤橋。首都高速4号線工事が眼の前まで迫っている
京王新線初台駅付近の三字橋。1928年(昭和3年)製だが、傷も少なく今も立派に存在している。欄干に沿って水道管が地上に露出しているのが解るだろうか
十二社通り/西参道を渡る代々木橋跡地。遺構はない
諦聴寺(たいちょうじ)。記録には諦聴橋と言う橋が載っているが、残念ながら付近に橋跡の痕跡が見当たらない
天神橋跡は学校法人文化学園敷地内のモニュメント
勿来(なこそ)橋跡。文化学園は広大な敷地を持つが、玉川上水にまつわるものはこうしてモニュメントとして残している。ここ勿来橋は文化学園の旧正門前にあたる
文化服装学園前は大きな広場となっているが、この真下が玉川上水路だった証である
五郎兵衛橋跡。五郎兵衛さんと言う方が関わってることは確かだ
新宿の雑踏に埋もれる千駄ヶ谷橋
葵橋は記念碑のみ建ち、通りにその名を残すが、元は国鉄(現JR)の線路を超える大きな橋
東京都立新宿高校敷地内に保存された旭橋。近年、学校自体が改修工事を行っているが生き残った
.....渋谷区の橋の記録を見ると、幡代橋と改正橋の間に警察橋が、諦聴橋付近に正春寺橋があった筈なのだが、いずれも「このあたりかな?」と言う推測だけで遺構は残されていない。他にも、大きな御屋敷を持つ名士達は玄関の前に私的な橋を架けて利用していたようで、実際にはもっと多くの橋が存在したのだろう。だがむしろ、役目を終えた玉川上水路上の橋達がこれだけ残されたり記念碑やモニュメントとして存在していることの方が貴重なこと、と考えるべきかも知れない。もっとも、オレみたいなバカがそこに水があったことに気付かないんじゃハナシにならないのだが.....。

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