第一章・ふるさとは宇田川
第一章・第一節/オリンピック・ベイビー誕生
1964年(昭和39年)10月13日、オレは渋谷区神山町2番地で生まれた。それはそれは可愛い.....まいいや(.....)。後年、良く母親に「アンタを生むんで、オリンピックが見れなかった」と言われたが、まさに10月10日から開催の第18回東京オリンピック大会3日目、"オリンピック・ベイビー"の誕生である。日本での初開催となった東京オリンピックと、1970年(昭和45年)の大阪万博は日本の高度経済成長と戦後の国際化の一大イベントであった。戦後の絶望的な状況から復興した街は活気にあふれ、人々は国際社会の中の日本を急速に受け入れ始めていた。
東京オリンピックは1964年(昭和39年)10月10〜27日まで、東京・代々木を中心に開催された
で、我が生家は渋谷駅からほど近い、しかしジャングルジムやブランコなどの遊具がたくさんある静かな遊歩道沿いにあった。
民家が建ち並ぶこの遊歩道沿いの住宅地は渋谷駅から井の頭通りを抜け、現在センター街裏にある宇田川交番の三叉路を左方面に直進した所、東急百貨店本店から徒歩6〜7分、NHK放送センターの西口から3分ほど、といったロケーションである。地元の人以外は渋谷駅からそんなに近い所に住宅街があることすら知らないかも知れない。住んでいた町名が"神山"だったからか、遊歩道と言うもの自体が生まれた時からあって珍しくなかったからか、目の前が川だったかどうかなどと考えたことは8歳で引越すまで、いや最近まで、ただの一度も無かったのだ。
1985年(昭和60年)のオレの生家付近。年代は違うが、家の付近はこのロケーション/路面だった
宇田川は河骨川、井の頭線神泉駅近くの鍋島松濤公園や初台川など、いくつかの川(支流)の集合体で形成されており、下流から最も離れた河骨川の源流からでも最終地点まで約3km程度の短い川である。宇田川のスタート地点はいくつかある小さな川の集合体なのでひとつに特定は出来ないが、それらが集まるのが小田急線代々木八幡駅付近(河骨川との合流地点近く)、最終地点は渋谷川と合流する渋谷駅付近である。よって、最も解りやすいのは井の頭通りの側を流れる川、と言う見方だ。で、宇田川は多くの支流を持つ集合体なので、ここでは"遊歩道"と言う意味合いも含めて渋谷川との合流地点をスタート地点と決めて上流へ向けて進むことにしよう。
渋谷駅東口地下を流れる渋谷川に注ぐ川、宇田川。その名は町名として残ってはいるが現在は全てが暗渠化されており、また橋などの遺構もない為、そこに川があったことを知る材料は極めて少ない(したがってオレのような無知を生むワケだ)。
実は大正時代に宇田川はその流路が変更されている。本来は現在のスクランブル交差点やセンター街付近を流れていたが、度重なる洪水被害により付近住民より駅周辺の河川の暗渠化が求められていた。1920年(大正9年)に渋谷駅が現在の位置に移動したのを機に(元々の位置は恵比寿寄り/現在の埼京線ホームあたり)に地下水路として一部流路が変更されているのである。表参道方面から恵比寿方面へと流れる渋谷川が明治通りとJRの高架の間にある宮下公園の地下部分で宇田川の流れを受ける。ここは宮下公園とのんべい横丁の間に遊歩道そのものが枝分かれしている場所があり、実際の宇田川と渋谷川の合流状況を現在でも確認出来る。そして、ここから上流へ向かう道程は丁度JRの高架を潜り、井の頭通り、つまり西武デパートのA館とB館の間を見ることで宇田川下流の全貌となる。
1951年(昭和26年)の渋谷駅スクランブル交差点。既に宇田川は写真右手へと移動している
こちらは現在。.....渋谷はいかに開発が進んでも、景観に大差が生じない街。谷形状の土地の特徴だ
井の頭通り、西武デパートのA館とB館の間からJR山手線ガード方面を見る。ガード下のトンネルへ向かうのが宇田川の流路である
逆にガード下から井の頭通り方面を見る。西武デパートの間を通って真っすぐ伸びている
左をみると渋谷駅、スクランブル交差点。元々はスクランブル交差点あたりを流れていた
右手は丸井、公園通り方面である
戦前から本来東急グループによって開発されて来た渋谷にとって、西武グループは後発にあたる。が、東急が渋谷駅近辺(東横/東急プラザ/閉館した東急文化会館/109など)を中心に渋谷の発展に貢献して来たのに対し、後発の西武は井の頭通りの西武デパートを始めPARCO、LOFTなどを擁して渋谷"界隈"に進出する。そして、このあと渋谷川の頁でも触れるが、実はどちらも川の存在によって少々面倒なデパート建設を強いられている。実は東急東横店東館が丁度渋谷川の真上に位置する為に地下フロアが作れなかったのだが、同様に井の頭通りをまたぐ西武デパートも中央の井の頭通りの下が宇田川である為に、A館B館双方の地下は連絡通路が作れない。それ故、3階/5階/屋上は連絡しているにも関わらず、地下フロアからは一旦地上に出なければA館B館の連絡が出来ないのである。東急/西武どちらも渋谷の川に翻弄され、建設予定を変更せざるを得なかったのは皮肉なことである。
井の頭通りの下に宇田川が流れているために、地下フロア同士の連絡通路のない西武デパートA館B館
西武デパートA館B館の間を進み、宇田川本流を辿ると三叉路となる宇田川交番のあたりまでは井の頭通りの真下となる。が、実は江戸時代には現渋谷センター街の下に宇田川が流れていた。それが昭和初期に度重なる豪雨被害の対策と渋谷駅付近の開発に伴ってこの井の頭通りの位置に移されたのである。ちなみに井の頭通りは当初地下に水路を埋め込んだ道であったために"水道道路"と呼ばれた。そしてこの宇田川交番を左へ行く道は宇田川通りと言う名を持つ。渋谷クアトロやBEAMの間を入り、旧・仲屋むげん堂のある道へ、と言えば解る人も多いだろうか。この通りに入ってから、左側にガードレールのある一方通行の自動車道路となり、ガードレールは一段高くなったコンクリートのバーに埋め込まれている。 そして、路面は暗渠特有のカマボコ型、つまりここからは43年前の暗渠化された当時の宇田川そのままの路面を保っている区間である。
センター街の裏手の宇田川は区間一方通行だが井の頭通り。このあたりは昭和初期にセンター街寄りから流路が移されている
宇田川交番の三叉路を左へ行くのが宇田川通り。BEAMやクアトロがある方の通りだ。右へ行くと東急ハンズ、そしてオレの母校大向小学校(現・神南小)がある
左がBEAM、奥は東急百貨店本店。宇田川は写真右手/OUTBACK手前からBEAMの向こうへと流れており、元々の流路もここから上流は同じ
カマボコ型路面の宇田川暗渠。センター街のすぐ先、と言えば意外に思う人もいるだろう。このあたりはオレが小さい時から舗装が変わっておらず、今思えば何故こんなに道の端がかたむいているのか不思議だった。が、当時ヒビは入っていなかった筈だ.....
暗渠化当時と変わらぬ宇田川町38番地近辺。コンクリートのバーに埋め込まれたガードレールが印象的
宇田川の暗渠は丁度右手がNHKの敷地となるあたりから遊歩道となる。実はこの遊歩道は元々"宇田川遊歩道"なんて名は無く、2005年(平成17年)に遊具や植え込みのある一般的なコンクリートの暗渠だった遊歩道を新たに整備して現在の"川の流れのような"デザインとなった。これに関しては.....遊歩道そのものの老朽化で犯罪やオートバイの違法駐車などが絶えなかった故の住民の方の署名の成果だそうなのだが、暗渠化された当時のカマボコ型の遊歩道で育った者としては少し.....少しだけ、その変貌ぶりに寂しく思ったりもする。
宇田川町と神山町の境あたりから、暗渠は遊歩道となる。右手にはNHKがある
遊歩道は現在タイル状の"川の流れ"のようなデザインとなっているが、数年前までは道路中央に植え込みや遊具のあるコンクリート舗装であった
.....そしてオレの後の煉瓦色のビルが建っている場所、ここがオレの生家があった所である。奥に見えるもう少し薄い色の大きなビルは当時魚屋さんで、実は今も同じ方が魚河岸料理のお店をやってらっしゃる。現在遊歩道の両脇に植え込みがデザインされているが、奇しくも暗渠化前は丁度このくらいのスペースが川辺だったらしい。
8歳まで過ごした生家跡にて。当時の家は木造2階建て、この写真は現在この付近に住む優しい奥様(しかも美人!)に事情をお話して撮って頂いたのだが、丁度撮って頂いた位置に丸い砂場とそこへめがけて滑り降りる滑り台のある、昔ながらの遊歩道であった
.....初公開、生家付近にて撮影された加瀬竜哉幼少の頃の勇姿(笑)。母親所有のアルバムには1965年(昭和40年)とあるので、1歳ってトコなのだろう.....どーでも良いけど、コレ、橋跡じゃないの!?
ところでオレが生まれた1964年(昭和39年)に既に暗渠/遊歩道だったこの場所は、いったいいつ暗渠化されたのか。調べてみると1961年(昭和36年)の宇田川暗渠化計画の翌年、1962年(昭和37年)となっていた。オレが生まれる2年前.....いやちょっと待てよ、オレん家はいったいいつからここに、いやオレの両親はいつからここに住んでいたんだ?。母親に聞くと「アンタが生まれる3年前」、つまり1961年(昭和36年)、と言う答え。
「ん?、じゃ引越して来た時はまだ宇田川が流れてたの?」
「そうよ」
.....知らなかった。ウチの親は暗渠の遊歩道に引越して来たんじゃなくて、宇田川の川辺に居をかまえたのだ。ああ、もっと早く知りたかった。「でもすごく汚いドブ川で、柵も低くて怖かったけど『来年暗渠化して遊歩道になります』って言うから決めたのよ」.....そうか。そりゃ目の前が落っこちそうなドブ川ならこれから子供を持とうとする家庭には不向きな立地条件だ。これはつまり、ウチの親は川沿いを好んだワケではない、と言う証しでもある。どうりでオレが水を見た記憶がない筈である。
更に、オレには橋の記憶もない。オレが生まれる前は、奥の魚屋さんのトコは桜橋と言う橋だったらしい。宇田川は、ほぼ完全に川としての存在を否定された川なのである。
渋谷の繁華街からほんの数分のこのあたりは日本の高度経済成長期に所謂"閑静な住宅街"となった。1972年(昭和47年)の転居時にここにあった建物はもうあまり残っていないが、写真左手の階段のあるアパートは記憶にある
こちらは2002年(平成14年)、遊歩道改修直前の姿。この砂場がオレの"ホーム"だったんだ (撮影:
世田谷の川 探検隊
)
1947年(昭和22年)、米軍撮影による1/10.000の航空写真に見る宇田川付近。井の頭通りと平行するように渋谷駅へと向かう宇田川の姿がハッキリと写し出されている
このあたりから先はマンションなどの住宅地、時折自宅兼店舗のような小さな店は存在するが基本的には住宅地の真ん中を通る遊歩道であり、周囲の住宅にとっては自動車/オートバイなどが入って来ないと言う意味では非常に安心な条件、と言えるだろう。しばらく進むと渋谷から左折して来た井の頭通りにぶつかり、橋の痕跡などは存在しないが延長線上に遊歩道が続く。
足元のマンホールからは大きな水音が絶え間なく聞こえて来る
並走している井の頭通りを横切り、住所は富ヶ谷となる。代々木練兵場付近だったからだろうか、ここには軍人橋と言う名の橋があった
同じ暗渠遊歩道上、昔はブランコやすべり台で遊び、今や子供が携帯でメール。.....歳取るハズだ、コリャ
宇田川遊歩道は小田急線代々木八幡駅商店街へぶつかって終わる。宇田川は前方の自転車の女性の向かう道路左側の歩道あたりから手前に流れてくる
逆側から見た宇田川遊歩道入り口。右側の茶色いビルは以前は文具店、左側の理髪店は昔のままだ。ちなみに学生の時、この理髪店の左側にあったハンバーガー・ショップでアルバイトしていたことがある
同じデザインの遊歩道を進むと、徐々に宇田川は左へとカーブする。ここで宇田川は右手から注ぐ河骨川の流れを受ける。そしてこの先で暗渠の遊歩道は終わり、小田急線代々木八幡駅の商店街へと続いている。小田急線代々木八幡駅は代々木公園のほど近く、渋谷と新宿のほぼ中間地点に位置する、山手通り(環状6号線)と井の頭通りが交差するあたりにある。写真は山手通り上から代々木八幡駅商店街を渋谷方面に向けて望んだロケーション、丁度写真右手の赤い歩道部分が宇田川暗渠で、商店街の一番奥に見える茶色のビルの手前を左に入るように続いている。
山手通りから眼下の小田急線代々木八幡駅を望む。右の歩道が宇田川暗渠、商店街奥に見える茶色いビルが宇田川遊歩道入り口
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