2012/01/01 up 
第九章・唱歌"春の小川"生誕100周年  
1964年(昭和39年)10月13日、「東京都渋谷区神山町」と言う場所でオレは生まれた。

その時、この街は第18回オリンピック競技東京大会、所謂"東京オリンピック"の開催地として選ばれ、10月10日の開会式から完全にオリンピック一色となっていた。そう、オレの生まれる3日前にこの一大国家イベントは始まったのである。
全てがこのオリンピック開催に向けて動いていた。室内競技のメイン会場となる国立代々木競技 場、第一/第二体育館や当時の国際空港だった羽田から駒沢競技場や戸田競艇場を結ぶ主要道路の環状七号線は開催を目前にしてようやく完成、中でも東京モノレール羽田空港線は開催一ヶ月前の9月17日開通、東海道新幹線に至ってはまさに直前、10月1日になってようやく開業.....2008年(平成20年)の北京オリンピック開催に向けた中国の突貫工事振りをご記憶の方も多いと思うが、当時の日本も同じだった。国際社会の一員として「恥ずかしくない国」を演出するため行政は必死になり、開催日直前まで、いや実際に始まってしまってからもまだ何処かの工事が続いているような状態だった。
当時の日本には大きな"理由"があった。
1925年(大正14年)、都市を襲った巨大地震、関東大震災。更に悲しい戦争が追い討ちをかけ、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終戦から19年。東京と言う主要都市が瓦礫の山と化した敗戦、無条件降伏から来る喪失感。そこから日本は立ち上がった。瓦礫を片付け、街を造り、産業を成り立たせ、そして人々を住まわせた。僅か19年で、それを世界にアピール出来る最大の機会が訪れた。それがオリンピック開催だったのである。
   1965年(昭和40年)、1歳のオレと母、祖母。"捕まった宇宙人"ではない(苦笑)。東京オリンピック開催から1年。この写真の右手は代々木公園、左手は生家のあった遊歩道、つまり宇田川遊歩道である
代々木の丘に、巨匠・丹下健三によるモダンなデザインのふたつの競技場が聳え立った。
そしてそこは、前年まで米軍将校とその家族による居住区"ワシントンハイツ"であった。
更にその19年前、そう、戦時中までそこは"代々木練兵場"だった場所だった。
   
 丹下健三デザインによる国立代々木競技場・第二体育館。1964年(昭和39年)の完成以来、その佇まいは今も変わらない
東京オリンピック開催により、ワシントンハイツは日本に"返還"され、跡地は代々木公園となった。"戦争"と言う巨大な事件を中心に、昭和のほんの数十年で代々木の景色は大きく、そしてめまぐるしく変わって行ったのである。

そして現在(2012年/平成24年)。
代々木の景色は、そこから見下ろす神山町も含め、そう大きく変わらない。いや、もっとハッキリ言えば、会場となった代々木第一/第二体育館、翌年移転の渋谷区役所、公園通りを下って谷底に広がる渋谷駅ロータリー。代々木公園は緑で染まり、オリンピック中継のために作られたNHK放送センターを挟んだ西側の神山町の街並み/仕組みは、47年前にオレが生まれた当時のままである。昭和〜平成、21世紀を迎える中、他の主要都市がどれだけ大きく変貌を遂げても、渋谷と言う街の基本構造は変わらない。
   1964年(昭和39年)の公園通り頂上の風景。特徴的なカーブを描く渋谷区役所と隣接する渋谷公会堂。区役所の裏手には渋谷区立大向小学校(現・神南小学校、ちなみに筆者卒業)がある。これらの建造物も全て現存、渋谷の景色の普遍ぶりをよく表す一角
もちろんそれには理由があった。
IOCが第18回オリンピック大会開催地に東京を選んだのは1959年(昭和34年)。開催まで僅かに5年の猶予しかない。行政に出来ることは、完全なる"ゼロからの出発"ではない。"今あるものは利用する"ことである。そうでなければ間に合わないからだ。

東京の高速道路化は何故早かったのかと言えば、明確な答がある。用地買収などの交渉で揉める時間を省くため、なんと河川の上を通す計画が進められ、これが大成功となる。そのため、東京の主要高速道路はクネクネと曲がっているのである。
そしてもうひとつ。
"ポッチャン・トイレ"の国、ニッポンでは、まだまだ未普及の"下水道整備"が問題となっていた。世界中からゲストが大挙してやって来るオリンピックでは尚更であり、メイン会場と選手村を構える渋谷・代々木では1964年10月10日までの下水道化、が大命題となった。
丁度良いものが目の前を流れていた。多くの小さなドブ川だ。
「コイツらに蓋をして、地下を流れる下水道に変えよう。地上は遊歩道などの生活道路にすれば良い」
.....何と言う画期的なアイデアだろうか。かくして渋谷の汚いドブ川に蓋がされ、水洗トイレが普及し、東京オリンピックは大成功に終わった。日本は瓦礫の山から立ち直り、立派な都市となったことを世界中にアピール出来たのである。ま、それはつまり、1964年10月10日までに急いで渋谷のドブに蓋がされた、と言うことでもある。
   行政は「川の上に高速道路を建設する」と言う一大アイデアを実行、これにより短期間での都市化が進んだと言える
.....で、オレだ(やっと、かよ)。
ま、このコンテンツを初めからご覧になって頂いた方々には既に周知の事実なのだろうが、ようするに1964年10月13日にそこでオレが生まれた時、全てのドブ川蓋がけ〜遊歩道化は完了していた。オレは生家の前の遊歩道でガキ大将と化し、砂場に通じるすべり台とカラフルなジャングルジムを占領していた。もちろん、そこが完成したばかりの"ドブ川の蓋の上"とは知る由もない。そのことを知るのは哀れ、40歳を過ぎてからのこと。
「宇田川?.....そう言えばもうちょっと渋谷駅寄りの隣町は宇田川町.....川って字が入ってる。よく考えりゃ神山町は山で、渋谷区は谷だ」.....そんな初歩的なことが初めて気になりだしたオレは根っからの集中学習タイプの性格で一気に調べ始め、そしてようやく自分のルーツを知ることになる。"暗渠"なんて言葉はこの時初めて知った。あれから半世紀たった今も、暗渠という蓋の下の川は存在し続けていた。

春の小川はさらさらいくよ
岸のすみれやれんげの花に
姿やさしく色うつくしく
咲いているねとささやきながら


.....この、オレが生まれ育ったコンクリートだらけの都会の景色とは年代も地域も全くと言って良いほど一致しない、素晴らしい歌。
   唱歌"春の小川"作詞者、国文学者・高野辰之氏(1876年/4月13日〜1947年/昭和22年1月25日)。代々木に暮らし、代々木を愛し、この名曲を生み出した
それはなんと、オレが生まれるつい3日前に蓋をし終わったドブ川を歌ったものだった。しかも、発表されたのは1912年(大正元年)、オレが生まれるたったの52年前。大正と言えば古く聞こえるが、チョンマゲの江戸時代のハナシじゃない。僅か半世紀の間に、春の小川はドブ川として下水道化される運命となったのである。
   "「春の小川」が流れた街・渋谷特別展"(白根記念渋谷区郷土博物館)にて公開された、大正時代の春の小川(河骨川)の写真
.....詳しいことはこのコンテンツを隅から隅までジックリとご覧になって頂くとして、実はそう言うワケで今年、2012年(平成24年)は、唱歌"春の小川"・生誕100周年なのである。
たったの100年。日本の最高齢の方は114歳(2011年12月現在)なので、14歳の時に代々木に広がっていた景色がこの歌なのである。
コンクリートに挟まれて生きて来た都会人のない物ねだりか、その執着心たるや相当なものとなり、"インターネット"と言う時代性を利用して自らのウェブサイトで"研究成果"(笑)を発表。金髪ロッカーが地面見ながらひたすら歩き続ける不気味性が一部でマニアック化し、2008年(平成20年)にはNHKの番組"熱中時間"が取材に来た。ところがこちとら根っからマジでやってる真剣コンテンツ、"面白い組み合わせ"と言う当初の番組コンセプトを担当ディレクターと共に裏切り、都市化する日本の在り方そのものを問う番組作りでおかげさまで高視聴率を稼ぎ、各方面の皆様から絶賛頂いた。中でも、オレが蓋の下へ潜って暗闇で"春の小川"を歌った場面は多くの方々からご評価頂いた。全国区歌手デビューしちゃったよ、母ちゃん、みたいな(爆)。
   
で、その番組の際に、こんなバカなことに興味を持ち、しかもソイツに一生を賭けちゃってるみたいな渋谷生まれの人に出遭ってしまった。

白根記念渋谷区郷土博物館・学芸員、田原光泰氏。
この人はハンパじゃない。渋谷区役所の方だけあって、渋谷の河川、上下水道に関して膨大な資料と知識をお持ちである。しかも、番組収録時に合わせたかのように"「春の小川」が流れた街・渋谷"と言う展示会を開催し、そこで大正時代の春の小川の写真を公開することが出来、番組の完成度に非常に大きな役割を果たすこととなってしまった。
   
 番組制作に多大なる影響を及ぼした"「春の小川」が流れた街・渋谷特別展"@白根記念渋谷区郷土博物館
.....今回はそんな"運命"すら感じる盟友、田原氏と、唱歌"春の小川"生誕100周年を記念してウェブ対談を行うことが実現しました。NHK"ブラタモリ"にも出演してその川博士振りを遺憾なく発揮している田原氏とのスペシャル対談。じっくりお楽しみクダサイ!。
 
 
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