第八章"もうひとつの「春の小川」"
第八章・第二節・代々木川・上流域
1947年(昭和22年)米軍撮影の代々木川水源付近。玉川上水から始まる黒い水路の筋がハッキリと写っている
この代々木川と呼ばれた小川、最上流の水源となるのは玉川上水からの取水である。そこから明治神宮/代々木練兵場の丘の東側の谷を流れるこの水路は、主に千駄ヶ谷地区(大正期当時。現在の千駄ヶ谷とは位置が異なる)界隈の水田を潤す農業用水路として活用されていたらしい。途中いくつかの自然発生的な水源も存在していたが、あくまでも用水路としての水量確保のため、最上流に玉川上水からの取水を設けたと思われる。
現在その位置は甲州街道沿いの文化服装学院敷地付近となる。
甲州街道沿いに聳え立つ文化服装学院。現在は西新宿、かつては角筈村(つのはずむら)であった
文化服装学院正面。かつては撮影位置と建物の間に玉川上水と京王線が立ち塞がっていた
1962年(昭和37年)、暗渠化直前の玉川上水・角筈付近。併走するのは京王線であり、現在はどちらも地下を走る
1919年(大正8年)創設の文化服装学院がこの地に移転して来たのは1923年(大正12年)、以降玉川上水沿いのこの土地で発展し、1998年(平成10年)に現在の建物が建てられた。その際、玉川上水のかつての橋跡をメモリアル・オブジェ化したりと、土地の歴史を重んじる活動を行っている。
文化服装学院を背後に建つ、玉川上水の地下トンネル・オブジェ。実際に使われている煉瓦を一部使用している
右手は甲州街道、撮影位置がまさに玉川上水の真上である
昭和初期、現在の超高層ビル群にあたる淀橋浄水場の水溜プールごしに見る、甲州街道/角筈方面。右側のガスタンクは現在のパーク・タワーの位置、左側に聳え立つのは当時"モダン"だった文化服装学院の旧校舎である
.....そう、このメモリアル・オブジェの建つ位置こそ、代々木川の水源となった場所なのである。"春の小川"と呼ばれた河骨川の水源からほんの400mほど。この僅かな差が代々木山谷地区の東西の小川の運命を分けた。そして、こうして最上流で玉川上水からの取水を受け、この先の流路地域である千駄ヶ谷地区の田園地帯のための水量を確保し、途中いくつかの自然発生的な水源からの流れを交えつつ、代々木川は河骨川とは逆の、代々木練兵場の丘の"東側"の谷を流れて行くのである。
文化服装学院敷地裏手へと続く小道。まったく何の面影もないが、代々木川が流れ出した跡である
目印もないため、"「春の小川」が流れた街・渋谷特別展"のガイド・ブックを頼りに、地形的に水が流れるのに自然な方向へと進む
こちらはJR総合病院。いつだったか、カナダ旅行から帰って来た筈のオフクロが何故か成田でなくこの病院から「向うで足折っちゃった。ハハハ」と電話して来て、慌てて向った記憶がある(笑)。ここには昭和初期まで大名屋敷があり、敷地内の池からの流れが代々木川の最初の自然水源だったという
道端に埋もれた遺構は河川時代の名残りなのだろうか
渋谷区立代々木小学校。河川跡には付きものの公共施設、学校の登場である
代々木小学校正門前からクネクネと続く道
コインランドリーは、同じ位置でのかつての銭湯の存在を確信させる。つまり、小河川の存在に繋がるということ
今度は緩やかなカーブを描く。このあたりは昭和初期の早い時期に暗渠化されている
排水管がこのように地中に埋め込まれているのも、河川暗渠にありがちな状況である
やがて行き止まりとなる。そこには.....
突き当たった先は小田急線・南新宿駅。新宿から各駅停車でひとつ目、つまり隣の駅である。ちなみにその次が参宮橋、その先は代々木八幡。つまり河骨川のテリトリーである。
南新宿駅は高架式であり、ホーム下の地上部分となるこの位置に、ようやくここまで地図を頼りに半信半疑で辿って来た道が水路跡であることを確認出来る遺構と出逢う。水門跡である。
小田急線ホーム下に現存する水門跡。しかし肝心の流路部分はコンクリートで塞がれてしまっている
南新宿駅は1968年(昭和43年)に現在の位置で高架駅となる以前は、今より新宿寄りにあった。よって、代々木川は当初から水門形式で線路を潜っていたわけではない
こちらは水門跡の反対側。似たような状況ではあるが、荒れ度合いが酷い
小田急線・南新宿駅改札。1日の乗降客数は3,600人程度(2009年調べ)と少ない。新宿駅まで徒歩圏内なのと、JR代々木駅が近いことなどが理由
駅周辺にはまだまだ"昭和"の匂いが色濃く残っている。新宿の隣の駅とは思えない雰囲気だ
古いアパート、ポンプ式の井戸.....開発の波は眼の前まで来ているが、あまりにも極端な状況と言える
流路跡は住宅街を抜けて行く
突然大きな通りとぶつかる
代々木川流路跡がぶつかったこの大通りは、代々木駅前と西参道を結ぶ道、そう、高野辰之邸の前の道である。つまり、少なくとも高野氏が国鉄代々木駅を利用した際は、この位置で代々木川にかかる橋を渡っていた、ということになる。地形的には当然ながら最も低い谷底に位置し、代々木駅から代々木"九十九谷"を下り、代々木川を渡り、そしてまた登って帰宅、という状況である。
これにより、少なくとも高野親子が代々木川の存在を"知らない"という可能性はなくなった.....。
1947年(昭和22年)、GHQ撮影による航空写真。写真上方から流れて来た代々木川が国鉄(現・JR)代々木駅前から西へ伸びる大通りを横切る。代々木駅と高野邸を結ぶこの道の最も低いこの場所に、旧流路(西側)には千代田橋が、新しい方の流路(東側)には新田橋という橋が架かっていた。ちなみに小田急線・南新宿駅は1927年(昭和2年)の開通時は"千駄ヶ谷新田駅"という名だった
こちらが代々木川のに架かる橋の上から高野邸方向を見たアングル。この先にはいくつかのアップ・ダウンがあるが、高野邸まで徒歩で10分もかからない距離
大通りを超え、流路は続く
いくつかの古いアパートや住宅は代々木川流路跡に背を向けて建っている
左は1958年(昭和33年)、まだ一部が暗渠化されていなかった貴重な代々木川の姿、右は同じ場所の現在である。もはやドブ川と化し暗渠化直前なのだろうが、左岸のコンクリート壁は開渠時代から健在、ということ
流路跡は再び大きな通りへと出る
正面の階段を登り、振り返ったアングル。それなりに深かったことが解る
昭和初期、"公共下水道整備"として暗渠化工事を受ける代々木川の姿
代々木川は明治神宮・北参道入口付近へ到達。ここで、かつては明治神宮内にある池からの合流を受けていたという。明治神宮東側の谷を流れて来た代々木川、この先はかつての千駄ヶ谷の低地地帯へと向う。
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