第八章"もうひとつの「春の小川」"
第八章・第三節・代々木川・下流域
1947年(昭和22年)GHQ撮影による航空写真に於ける代々木川、中流域。写真左上から弧を描いて流れて来た水路が線路を超え、写真右下方向へと向うのが黒い線で確認出来る
実はこの代々木川、現在記録には暗渠化直前の流路とそれ以前の流路の2本が平行して走るポイントが多く存在する。それは如何にこの川がその都度その都度、人々の都合で進路を変えられて来たか、を物語っている。よって、こうして戦後の写真に暗渠化前の姿が残っているのはまず"最後の流路"だと思って良い。言い換えれば、そのラインの地下に下水道幹線が走っている、ということでもある。
代々木川は小田急線に続き、国鉄(現JR)の線路を超えて行かなくてはならない。流路は左手のパイロン内側地下、と推測される
地図的に水門が存在したであろう位置。渋谷川/大京町の水門遺跡と良く似た赤煉瓦作りだが、水路跡につながるものは発見出来なかった
足元には古めかしいマンホール蓋が顔を出すのみ
線路の反対側に回ると、こちら側には水門の跡が残されていた。植物が置かれカモフラージュされてはいるものの、明らかに水門の形状である
水門を潜った代々木川は右折し、しばらく線路と平行して進む。この石垣瓶も、恐らく開渠時代からのものなのだろう
またしても大通りに遭遇。こちらは明治通りである
代々木川は昭和初期、明治通り開通工事の影響でも流路変更が行われた。多くは元の流路近くに平行する形で新設されたが、その際既に下水道化が決定していたと思われ、場合によっては道路中央の地下に直線状に作られたりしたようである。
東京メトロ副都心線、北参道駅。.....この線の開通は2008年(平成20年)。地下16mを走るこの電車は、もはや代々木川の歴史とは何の関係もない、と言える
こちらは1938年(昭和13年)の北参道付近。この時点で代々木川は一部が既に明治通りの地下水路となっていた
代々木川は千駄ヶ谷の低地へ
千駄ヶ谷、と言えばかつての徳川屋敷である。NHKの大河ドラマ"篤姫"最後の地としても有名なこの一帯は、明治維新後も1887年(明治10年)に徳川邸が建てられている。その名の通り特徴的な渓谷状の地形で、低地は相当な湿地帯だったという。故に水害も多く、小さな河川は千駄ヶ谷界隈の生命線であると同時に、相当に問題視もされていたと思われる。
大正末期の火災後に新築された徳川邸。現在の東京体育館のあたりである
1964年(昭和39年)、代々木〜千駄ヶ谷付近に絶対的な変化が訪れる。東京オリンピック開催。この国家的一大事業の舞台となったことで、小川も森も完全に消え去ることとなったのである
古くからこの付近にお住まい(と思われる)の方に突撃取材
「昔は高台の方には徳川の屋敷とかがあってね。大正時代に徳川が宅地造成をしたんだよ。でもあたし達平民はみんな必ず低いトコ(笑)。ちょっと雨降るとすぐ水浸しになって、でも高台の人達には何の被害もない。お金もない平民ばっかりがいっつも迷惑を被るんだあ」.....いったいこの方が何歳なのか解らなくなるコメント(苦笑)だが、千駄ヶ谷地区の"高低差"はそのまま人々の生活にも影響を及ぼしていたようである。
ガイド・ブックによれば、ここはかつて滝だったそうである
これは1957年(昭和32年)の"渋谷川支流(代々木川)暗渠化工事"の様子である。水害のみならず、付近の住民からも安全のために早期の暗渠化の要望が強かった、とのこと
再び流路は大通りと遭遇
右岸側を進むと渋谷区立千駄ヶ谷小学校がある
千駄ヶ谷小学校から代々木川の谷を見下ろす
そして再び流路は住宅街へ
千駄ヶ谷児童遊園地。こうした敷地もまた水路跡に多い
やがて景色が見覚えのあるものとなる
コンクリートで固められた渋谷川・原宿橋支柱
辿り着いたのは渋谷川・原宿橋跡。"原宿橋"と刻まれた橋の支柱を上からコンクリートで固めた、見覚えのある橋である。どうやら、代々木川のゴール地点が近いようである。
渋谷川暗渠・現在通称キャット・ストリートと呼ばれる道と平行する細い裏道
そして.....
キャット・ストリートへと合流
代々木川は渋谷川へと合流し、終った
写真は1962年(昭和37年)、暗渠化直前の渋谷川・境橋の姿。このやや上流で代々木川が渋谷川に合流していた
1947年(昭和22年)、米軍撮影による航空写真に見る代々木川と渋谷川の合流地点付近。が、残念ながら戦後のこの時点で既に代々木川下流部は暗渠化が完了しており、この現存最古の航空写真でも確認不可能である
渋谷川との合流は1906年(明治39年)当時、現在の渋谷川・原宿橋の位置に架かっていた代々木川・原宿橋だった。が、それ以前の代々木川はより下流で自然合流しており、なんでも経済的に原宿橋の管理が行き届かない、との理由で旧流路を廃止して払い下げ、道路改修費を捻出した、とされる。その際廃止された原宿橋は、あらためて渋谷川の橋として誕生したのだという。
こちらは明治神宮を中央に見た等高線地形図。玉川上水の取水ポイントから代々木川が流れた明治神宮東側の谷は、そのまま渋谷川の谷と地形的にも合流しており、代々木川が高低的に無理のない流れ方をしていたことが解る
代々木3丁目で玉川上水から取水された代々木川は明治神宮の東側の谷を流れ、最終的に渋谷川へと合流する形で終った。記録では代々木川は1724年(享保9年)、"玉川上水・原宿村分水"として開通したとのこと。ただし昭和初期には既に分水機能は停止し、下水道整備へと方向転換を余儀なくされていた。
渋谷川(青線)に注ぐ代々木川(赤線)が"川を利用した下水道幹線"として記されている
これが現在、地下を流れる代々木川の姿である。奇しくも、取水位置の玉川上水のモニュメントと同じような煉瓦作りの地下水路だ


.....こうして代々木川を辿り、またあらためて"いつもの結論"に行き着くこととなった。結局、渋谷の河川の歴史は常に戦争と発展に大きく影響されていることを痛感することとなったのである。
緩やかな谷地形を持つ、武蔵野の広大な代々木原。そこを流れる中小河川は、多くの田園地帯を潤すのに絶好の流れ達だった。が、1900年代に訪れる震災や戦争により、多くの人々がこの渋谷を"緩やかで暮らしやすい居住地域"として訪れ、そこには宅地化/都市化の波が訪れる。が、そうなった際、豊かな農業用水として田畑を潤していた中小河川達は突如人々の生活に牙を剥いた。水害は谷底の渋谷を中心に起り、行政は早急に対策を迫られる。同時に、新たな生活様式のために"下水道の必要性"とも直面し、人々を潤していた河川が今度は別の使い道を模索されることとなる.....。
結局、東側の代々木川も西側の河骨川と同様の運命を辿っていた。それは西側よりも数十年前に始まっており、当然ながら数十年早く完了した。それ故に現在地上に残る物的証拠も少ないが、宅地化以前にすみれやれんげの花の咲き誇る岸辺を持つ小川だったことは間違いないのである。
....."大正時代の春の小川"、そう、この写真は代々木練兵場を挟んで、反対の西側を流れた河骨川の姿である。が、すぐそばに水源を持ち、東側の谷を流れた代々木川もまた、この写真と良く似た風景だった筈である。しかし、この川が春の小川である、と言われることはない。例え作者の高野親子の眼に同じように映っていたとしても、21世紀の現在、代々木川は決して"もうひとつの春の小川"にはなれないのである
.....大正時代、代々木川は高野親子の眼にどう映っていたのだろうか。都市化と水害に喘ぐ渋谷の街に於いて、いち早く"下水道への転換"を命じられたこの川も、大正当時はまだ千駄ヶ谷の農村地帯のド真ん中を優雅に流れる"春の小川"だった筈である。しかし時代は移り行き、今は誰も語ることのない"下水"として地下に残る代々木川。行く末が河骨川と同じであっても、早くに忘れられた"渋谷発展の立役者"であり、被害者である。

忘れないこと。それだけが現代人に出来る唯一の罪滅ぼしなんだ。

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