第六章・熱中時間がくれたもの
第六章・第二節/河骨・宇田川・復流路
この"熱中時間"という番組に出演させて頂いたことで、何しろ春の小川に逢いに行けたし、担当ディレクター氏とヒジョーに仲良くなれたりもしたし、番組を観て同じように都市化について考え始めました、という方もいたし....."くれたもの"って意味じゃ本当に多くのものを齎してくれたと思う。

で、この番組のロケ中に出逢った多くの方々の中に、なんとオレを上回る"渋谷の川バカ"(失礼!)がいる。"熱中時間日記"ではT原さん、とお呼びしているその人は、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の学芸員。on airを御覧になった方は見覚えのあるこの人です。↓
2008年(平成20年)9月30日から12月21日まで開催されていた"特別展「春の小川」の流れた街・渋谷-川が映し出す地域史-"を企画された張本人で、ひとことで言うと「子供の頃に『どうして渋谷には川がなくなってしまったんだろう』と疑問に思い、以来川や暗渠、そして都市化などについて調べ始め、遂には仕事になり、念願叶って郷土博物館で特別展を開催」した、渋谷出身の39歳、である。
.....いるんだ、こんな人。
学芸員なんだから当たり前かも知れないけど、何しろ知識が半端じゃない。それに、「それは.....ちょっとお待ち下さい」なんてこと一切ナシ!。全部即答!!。普段「渋谷の川事情についてあなたを上回る人がいる筈がない」と言っていたマネージャーが撤回するほど(爆)。出身校こそ違うが同じ渋谷人、オレは渋谷の川沿い暮らし歴39年/川について調べ始めて2年、T原さんは渋谷区民歴は同じ39年だが渋谷の川を調べてなんと30年!。だから先輩の後輩なのだ!(.....)。
豊富な知識にも脱帽だが、何よりこの特別展のために彼が集めた写真や資料がハンパじゃない。on airにも登場する大正時代の河骨川はもちろん、これまで眼にしたことがない写真が山のようにある。余談だが、ウチのマネージャーが「あ、旗洗池だ」と呟いたら「お、良くご存知ですね〜渋谷出身ですか?」と聞かれ、違うと答えたらたいそう驚かれたそうな。.....ま、そりゃオレのせいだ。
on airではこの写真の存在のおかげで、まだ100年も経たない渋谷がどのように変化したのか、がとても解りやすく、都市化の現実を知る上で重要な役割を果たした。"熱中時間日記"では「渋谷が生んだ川バカふたり」と敬意を持ってご紹介したが、実際オレなんか足元にも及ばないほど、全てを正確に把握してらっしゃる方。でもどちらも暗渠化以前を見たことがない、ってのが可笑しい。渋谷が生んだ「無いものねだりふたり」かな(笑)。
あまりにも会話がマニアックなため、スタッフにも飽きが見え始める(笑)
さて、この"特別展「春の小川」の流れた街・渋谷-川が映し出す地域史-"には、これまた豪華でマニアックなパンフレットと言うかムック本がある。当然T原氏監修の本なのだが、ここには展示された様々な写真や資料以外にも、今まで知らなかった/謎だった多くの事柄について行政サイドからの"答"が記されているのである。例えば暗渠工事の図面だったり、発掘調査の報告書だったり.....本来"門外不出"でもおかしくないような貴重な資料が、それも「良くぞここまで」という量が掲載されているのである。本人曰く「いやあ、念願だったので.....」ここにも夢を叶えた人がいる。
"特別展「春の小川」の流れた街・渋谷-川が映し出す地域史-"に際して出版された本
今回初めて眼にするお宝写真が満載!!
その中に、ふと気になる記述があった。丁度第五章・第八節/"桃園川北側支流の謎"を調査していた時期でもあったので、おおいに興味を持ち、チャンスとばかりにロケの合間にT原氏に質問してみた。
それは、「川は本当に1本なのか?」という、非常にシンプルな疑問である。

普段、オレは暗渠化された道を見つけ、歩き、スタートとゴールをこの眼で確かめ、それが何という川なのか、を決める作業を繰り返していた。が、それは暗渠化直前、つまり大部分が昭和中期/東京オリンピック開催の頃に存在した"災害復興や宅地化を経て、人工的に流路を直された最後のカタチ"でしかない。
そして、武蔵野地域の小河川の役割とはいったい何だったか。それは多くの場合、灌漑用水である。カンタンに言えば田んぼに水をやる供給源だ。ここに沼があって、こっちは誰々さん家の田んぼ、こっちは誰々さんの.....供給する水路があれば、排水するための流路だって必要になる。水量が豊富で農業に適した武蔵野台地で、入り組んだ水路を更に住民がコントロールし、そうして何百年も人々の生活が成り立っていた。
今から90年ほど前の1923年(大正12年)、関東大震災が東京を襲う。下町の住宅密集地の方々が焼け出され、武蔵野に安住の地を求めてやって来る。その22年後の1945年(昭和20年)、第二次世界大戦で東京は焼け野原となる。決定的な武蔵野地域の宅地化が進む。それから僅か20年ほどの間に、人々は高度経済成長と共に農村に別れを告げ、都市化へと進んで行った。
ここに見られる大正時代の河骨川は、完全に灌漑用水である。"大正時代の"という注釈からして、少なくとも高野辰之先生が"春の小川"の風景を御覧になってから14年以内でしかない。所謂"古地図"には、細かい水路は記されていないことが多く、何故なら、田んぼと田んぼの間に水路があるのはアタリマエのことで、地図に書くなら誰の土地で何処が道か、で充分だからだ。そしてオレが普段あてにしているGHQの航空写真は最古で1947年(昭和22年)、終戦後2年経過した、暗渠化を間近にした川の"最後のカタチ"でしかない。
「その通りなんですよ」
T原氏は笑顔で答えた。
「川は農村時代の人々の生活に密着していましたから、仰る通りあちこちを流れていました。そして最終的にその内の1本が残り、暗渠化されていることが多いんです」
「実はオレ、生まれた神山町で、どうしても『ここも川だったんじゃないか』って思ってる場所があるんですけど.....」
「ああ、そうですね。これも宇田川の一部ですよ」
.....やっぱり。
彼が見せてくれたこの本には、オレがこの2年間疑問に思っていたことの答が、それも図解入りで書かれていた。
-宇田川には東側に別の流路がある-
これが問題の宇田川流域に多数の流路が記された図。宇田川遊歩道と代々木練兵場(現・NHK)の間に多くの水路が書かれ、写真上にはNHK放送センター前の島状緑地として残る"池"の存在までもが載っているのだ
「他にもですね.....」
T原氏がめくったそのページには、明治後期/代々木練兵場時代、つまり"春の小川"の頃の河骨川の流路が書かれた図があった。それはまさに、番組で登場する"春の小川のモデルになった"時期のもの。
そして、そこには「水田の中を多くの水路が流れ、整理されながら最後に1本が残り、それも昭和39年に暗渠化された」とある。つまり入り組んだ地形なりの自然流路として、そして灌漑用水として、小川達は縦横無尽に渋谷の広い谷底を流れていた、ということなのだ。更に、その広い谷底地形を利用し、灌漑用の水路が全ての合流先である渋谷川へ向かう際、途中で多くの分水を行い、結果として広い谷底を有効に利用した水田が展開出来たのである。
「ただ、これはあくまでも推定なので、全くこの通り、ということではありません」
元々「インターネット上にあやふや、または誤った情報が多過ぎる」こともこの企画のきっかけになった、というT原氏、確信のないものに関してはあまり強く言わない。が、彼が調べ上げ、集めた資料には絶対的な説得力がある。少なくとも、オレにはこの図のいくつかのポイントに、明らかな"心当たり"があるのだ。

小田急線・参宮橋駅から下流のものであるこの図には、本来複数の水路に囲まれた水田が記してある。小田急線の開通は1927年(昭和2年)、それより少なくとも20年以上前の図、ということになる。その水田群の両端の流路、これが一方は灌漑に、そして一方は排水に使用された川、と考えるのが自然である。そしてその2本に挟まれた場所が水田となり、その間に多くの用水路が設けられていたのだろう。代々木九十九谷を分散して流れた小川達を、人々は生活の糧としたのだ
.....もう既に、張本人のオレにもどうしようもない程長過ぎる前フリ終了(爆)。
ここでは、誕生から28年間を過ごしたオレの故郷、宇田川と河骨川の"復流路"を追うことにする。その後緑道や遊歩道にすらなっていない、昭和初期には既に地図から消えていた水路達である。

1947年(昭和22年)の米軍航空写真に照らし合わせた明治時代後期の河骨川流域水路図。1912年(大正元年)発表の"春の小川"は、まさにこの中にある。この重ね地図が正解だとしたら、オレが20年暮らした2軒目の家はまさに春の小川沿い、と言うことになる。いずれにしても、1964年(昭和39年)に暗渠化される河骨川"最後の1本"は、この無数の流れを宅地化/線路敷設などの都合に合わせてまとめられたことが解る



"特別展「春の小川」の流れた街・渋谷-川が映し出す地域史-"時に入手した、1909年(明治42年)の渋谷の土地利用図。代々木八幡山を中心に西(左)から初台川、北(上)から河骨川が宇田川合流へと流れ、その流域である谷地は田園地帯(黄色部分)である
初台/山手通り付近に残る、河骨川"最後の1本"の源流跡の現状。住宅地の裏手で野放しにされ、朽ち果てて行くのみ
写真手前を左から右へと向かうのが、刀剣博物館からの流れを合わせ、小田急線参宮橋駅方面へと流れる河骨川暗渠。その3mほど先に、舗装の違う部分が見える
立地条件のみならず、マンホールといい、スペースといい、愎流路跡と考えることは可能である
河骨川暗渠が小田急線線路を越える直前、左手に古い鉄道柵で塞がれた細いスペースが存在する。奥には参宮橋駅のホームが見えている。.....1927年(昭和2年)に小田急線が開通する際、その計画上には線路を河骨川が何度も横切る形となった筈である。おそらくこのタイミングで河骨川"最後の1本"が形成され、小田急電鉄がその始末を負ったのではないだろうか
左の写真は番組でも紹介された、1962年(昭和37年)の小田急線・参宮橋駅と暗渠化直前の河骨川の姿、右は現在の様子である。1912年(大正元年)発表の"春の小川"から約20年、都市化は"鉄道の開通"によって一気に加速する。代々木九十九谷を縦横無尽に流れていた河骨川は、現在の"線路沿いの1本道"、つまり暗渠化前の最後の1本へと整理されたのだ。その頃には既に水田も激減し、ワシントン・ハイツは東京オリンピック時に選手村として利用され、敗戦19年後の日本/東京/代々木は、大舞台へと打って出る経済大国の姿としてメディアを通じて全世界に紹介される。
そして、眼の前の小さなドブ川に蓋がされた。

1962年(昭和37年)、2年後の東京オリンピック開催に向け、暗渠化工事の始まった河骨川。国文学者・高野辰之は写真右手奥に暮らし、散歩時にこの谷へと歩き、そして名曲が誕生した。鉄道開通、宅地化、国際事業。都市化はその歴史を完全否定するかのように進み、ほんの50年ほどで代々木の風景を一変させてしまったのだ
小田急線線路沿いを代々木八幡駅方向へと進む流路跡
1962年(昭和37年)ワシントン・ハイツ敷地内から河骨川へと注ぎ込む1本の小流。現在の代々木公園内からの流れ、ということになる。これが自然河川だとは思えないが、同じ河骨川の支流には違いない
2008年(平成20年)秋、番組放送直後に公開した"熱中時間日記"に記した中に、河骨川暗渠から小田急線を隔てた位置にある、オレが28年暮らした家の跡地の前の道で、ディレクターが「この道も川みたいですね」と言う場面がある。オレの答は「ハハハ。まさか」。
実はあの会話を掲載した意味はここにある。つまり、オレの暮らした家の前の道は、実は小田急線線路を隔てて、河骨川暗渠と完全に平行して走る道なのである。
代々木八幡山と練兵場(現・代々木公園)の高台の間の谷地形は、"実は高野親子が歩いたのはオレの家の前の道だったかも知れない"、という新たな謎、いや"希望"を齎してくれたのだ。
20年暮らした代々木5丁目の自宅跡地前。写真右手には小田急線線路を河骨川暗渠、そして春の小川記念碑がある。.....この道が"春の小川"そのものだった可能性が浮上してしまったのだ
自宅跡地前の道、つまりオレが20年間歩いた道の右手は代々木八幡山。宅地化による地形変化がどれほどのものかは解らないが、確かにこの道を真っすぐ進めば初台川との合流ポイントと宇田川・上原支流に出逢う
小田急線線路の左側に河骨川暗渠。線路を隔てた反対側の側溝も、かつての河骨川/春の小川の仲間なのかも知れない
小田急線代々木八幡駅にほど近い裏道。写真左手に線路が写っているが、その下に河骨川暗渠が通る。駐車場を隔てたこの裏道も、造りといいマンホールといい、様々な可能性を提供してくれる
写真中央の車止めの左側が河骨川暗渠、写真手前から左奥へと流れ、間もなく宇田川に合流する。そして正面の家を挟んで右奥へ進む道も、この先感度かカーブしながら、やはり宇田川流路跡へと向かっている
正面奥に河骨川が合流して来る宇田川遊歩道(富ヶ谷)。この部分の写真右側の敷地はオレが子供の頃からスペースが広く取られているが、元々流路が弧を描いていたのを真っすぐにしたか、或は旧・流路跡なのかも知れない
河骨川を合わせた宇田川は、この先暗渠遊歩道となって神山町のオレの生家の前を進み、センター街方面へ向かう。このあたり、つまり代々木公園/NHKなどと、高台と代々木八幡山などを持つ富ヶ谷の高台との間隔、つまり谷底平地の幅はおよそ100mほど。.....確かに、そこに幅5mほどの宇田川が1本、と言うのは不思議ではある。
代々木公園交番前交差点。オレは今でもかつての名、"深町交番"と呼んでいる。左手は代々木公園、かつての代々木練兵場/ワシントンハイツ、前方にNHKが見え始めている。この道も河骨川付近同様、現在公園になっている一角を避けるようなくねった道だったが、1964年(昭和39年)東京オリンピック開催時の選手村へのアクセスを考えて真っすぐの道が作られたのである。そして、この20mほど右手を宇田川遊歩道が寄り添う
ワシントンハイツ返還後、東京オリンピック用に整備された道路。写真に写るこの区間を言うとピンと来ないだろうが、井の頭通りである
.....そして、これがまずオレが怪しんでいたポイント、神山町1番地である(オレの生家は2番地)。写真右手に宇田川遊歩道、左手にNHK。もちろん周囲の建物は一新されているが、40年近く前、この"隙間"は地元のオレ達の遊び場でもあった
"隙間"へ入って振り返ったアングル。前方は前述の代々木公園交番
現在は入れないようだが、当時は真っすぐ(もちろん障害物はあったが)進むことが出来た
良く、子供の頃に家の近くの何処かを友達同士で秘密基地にして探検したり、という話を聞くが、宇田川暗渠沿いの何処にもそんな場所があるワケない、と思われるだろう。が、都会の子供は都会なりに同じようなことを考え、どうにかしてしまうらしい。この"隙間"はオレにとってはそのひとつ。山も川も谷も見えなかったけど、親の眼を盗んで隠れる場所くらいは見つけられる。
神山町の白洋舎付近、入り口から約150mほど。オレが住んでいた頃はもちろんここまで身体を横にしながら進んで来れたが、現在は不可能
上の写真が更に進んだ位置、下の写真は、上の写真の左側に写っている空き地の反対側のアングル/宇田川遊歩道上。数年前まで、ここにはオレ達が"幽霊屋敷"と呼んでいた古い空き家があった。誰がいつまで住み、いったいいつから空き家で、そして何故最近になって更地になったのかは解らない。が、この一角のみまるでジャングルのように木が生い茂り、その中に平屋の木造家屋がポツンとあった。つまりその裏を"探検"していたわけだが、現在はこんなに見晴らしが良くなっていた
NHK放送センターの正面、ここまでこの"隙間"は続いている。が、新しい建物により、どうも当時よりは狭くなっているようだ
上の写真の位置から振り返り、その続きを見たところ。中央の家を挟み、右が宇田川遊歩道、そして.....今回オレが進むのは左側の路地である
宇田川遊歩道と並走しているが、通り抜けることは不可能なため、基本的に住民以外は使用しない道
やがて、これまで"怪しい路地"でしかなかった細道は、徐々に流路跡らしい様子を見せ始める
位置的には、丁度NHK放送センター西口前。写真左の緑色の柵から右手へ流れる形。こうして見ると、流路は地形に逆らわず、谷底を流れているよう
NHK側から流路方面を望む。ちゃんと浅い谷地形なのが解る
少なくともこの壁が1960年代よりも前のものだということは、今は駐車場になってしまったこの左上の土地に住んでいた小学校の同級生を持つオレには断言出来る

仲の良かった同級生達と、放課後の校庭でのドッヂボールを終え、各自一旦家に帰り、今度はグローブとバットを持って織田記念フィールドの前に集合する.....そんな日常にも、この道は使われていた。周りの建物は変わってしまったけど、自分の身長が伸びたことは良く解る
徐々に、多くの証拠が現れ始める。多くのマンホール、道路と一段段差を持つコンクリート・バー、そして流れ込むパイプ。流路を緩やかに弧を描きながら進んで行く
オレが生まれた頃、既にここに建っていた古いアパートはもちろん流路側に背を向け、流路との間には瓶が建つ
路面は何度となく掘っては埋め、を繰り返した跡のある、それでも相当古い時期の舗装のままである
そしてこの流路は角度を変え、宇田川"本流"大向橋付近で消える。道路右側の舗装のみ違うのは、ここに何があったのかを物語る証しではないか
"宇田川東支流".....調査前からオレが勝手に名付けていたこの流路こそが、オレ自身が自分の生活範囲が蓋をされた川達で溢れていることを知った時から考え続け、そして子供の頃、その狭さと人通りの少なさにより、秘密基地や隠れ家的な存在だった場所そのものであった。宇田川の"復流路"と呼ぶのが正しいかは解らないが、"特別展「春の小川」の流れた街・渋谷-川が映し出す地域史-"の本に記された流路の1本は、こうして現代の地形の中にもその面影を留めていたのである。しかしその流れは、渋谷が長閑な田園地帯であった武蔵野時代に、既に地上から姿を消していたのだ。

この本の流域図には松濤公園からの流れも記載されており、河骨川/宇田川本流同様、水田を中心に複数の流路が描かれている。ただ、第一章・第五節で触れているように、ここには三田用水からの引水も流れて来ており、高台の鍋島農園を中心に緩やかに谷底へ向かう、地形を利用した便利な流路だったと思われる。
中之島があり、水車の回る池.....地元・渋谷で唯一、暗渠化以前のムードの残る鍋島松濤公園
公園入り口から宇田川本流方向へは、緩やかな下りとなっている
現在暗渠化されて道になっている"最後の1本"以外、水路跡や遺構を見つけることは出来ない
左は1958年(昭和33年)、右は現在、東急本店前から渋谷駅方面を見た写真。丁度この撮影位置あたりが松濤支流が宇田川/大向橋へ向かう流路上である。50年前はここにオレの母校・大向小学校があり、今は東急本店/文化村となった。前方に東急東横店が見える。左手に建つ大映映画館は倒産の1971年(昭和46年)まではここにあった筈。生家から約7〜8分の距離、親父と"ガメラ"を観に来た記憶があるよ!
大向橋から松濤支流上流を見る。眼の前には1967年(昭和42年)建造の東急本店が聳え立ち、本流の面影すらない
暗渠とは何か。
人々の生活の中で、宅地化であれ都市化であれ、その河川/水路が"不要"と判断され、地上から姿を消す際に行う処置、と認識する。言い換えれば、川達はそれ以前、つまり"最後の手段"である暗渠化を避けるため、必死に時代の変化と闘っていたのだろう。そしてある時代には灌漑用に多くの水路が増やされ、活用され、それが徐々に減らされて行き、そして最後に残った1本が、完全なる都市化/経済成長の証しを向かえる瞬間に葬られたのだ。
そしてその瞬間は、オレがこの世に誕生するのと時を同じくしてやって来た。
東京オリンピック。
その時、国木田独歩も高野辰之ももういなかった。春の小川も武蔵野も、既に過去のものだったのだ。

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