第六章・熱中時間がくれたもの
第六章・第一節/春の小川に逢いに行く
.....2008年秋、NHKのTV番組"熱中時間"に、"暗渠熱中人"として出演させて頂いた。
御覧頂いた方も多いと思うが、この番組は何かに熱中する人を追跡するドキュメンタリー。つまりオレは「東京の地下に隠された水の流れを追跡する人」なワケで、TV的には金髪のロック・ミュージシャンが故郷・渋谷の暗渠を辿り、生まれた年の東京オリンピックの時代、いったい街にどんな変化があったのかを探ってる、っていうのがテーマ。つまり内容的にはほぼ"第一章・ふるさとは宇田川"、そして"第二章・春の小川に逢いたい"、これをまんまTVでやった、ってことになる。
で、ことの始まりは番組プロデューサーがweb上で噂のno river, no lifeを知ってオファーして来てくれて、んでオレ自身は「でも興味本位で橋の跡を探してる廃墟マニアじゃないよ」ってなやりとりがあって、んで担当ディレクターとロケ中に凄く仲良くなって.....ま、このあたりのことは全部"熱中時間日記"に書いてあるのでそちらを観てクダサイ。
ともあれ、暗渠熱中人の初回(BS入れて全部で7回もやった)放送時、番組史上稀に見る高視聴率となったんだそう。ちなみにオレの前の週にやった俳優の中本賢さん(アパッチ・けん/ハンダース、で解る人はイイ歳だ!)の"ガサガサ熱中人"の回が「汚れた多摩川が綺麗になって魚が帰って来た」っていうテーマで、これもやっぱり評判高かったそう。これは世間の所謂"エコ・ブーム"ってのと関係あるのかも知れない。
放送後、オレの方にも多くの皆さんから「そんなことがあったなんて知らなかった」「感激しました」等たくさんの感想を頂きました。この場を借りて、本当にどうもありがとう。

.....で、この番組にはモノ凄い"ご褒美"が付いてた。さんまさんの「あんたの夢をかなえたろか」という番組があるが、オレにとっては夢にすら考えなかったこと。

"春の小川に逢いたい"

ライヴやイベントで春の小川を歌い、蓋をされた故郷・東京の川を想ってオーディエンスの前で恨み節(爆)をブチまけていたオレを観て、プロデューサーが「行きましょう」、なんのことかと思ったらなんと渋谷川暗渠への潜入ロケ、という特大プレゼント!。しかも色々あって放送日はオレの誕生日の2日後、世間が東京オリンピックを思い出してる10月の開催中(東京オリンピックは10月10〜24日)に全国にon air、という.....ま、正直なハナシ、"一大事"ですよコレ。
でもこの番組のおかげで、誰かが暗渠という言葉を知り、誰かがゴミを投げ捨てるのを躊躇し、誰かが他の人に伝える.....悪いことではなかったのかな、ってのが正直なところ。
.....というワケで特別編。
今回は"第四章・where is 渋谷川?"では紹介出来なかった(アタリマエだけど)、渋谷川暗渠部分への潜入レポートを送る。

10回に渡る番組ロケの後半に企画された"渋谷川暗渠潜入ロケ"、ドキュメンタリーなので当然ロケハンもなく、「行ってみなけりゃわからない」状態。ディレクターが渋谷区役所に許可申請を行い、「宮益橋まではOK」との回答。実は渋谷川、宮益橋よりも上流は下水道・千駄ヶ谷幹線、宮益橋から下流は二級河川。よって区役所が許可出来るのは宮益橋まで。では、いったい何処が宮益橋なのか、真っ暗で解るのか!?.....という心配にディレクターは「加瀬さんなら解るでしょ?」.....ハイ、ワカリマス.....。

暗渠上、つまり潜入前からオレに解っていたことは
・稲荷橋から上流は1963年(昭和38年)に改修されている
・東急東横店東館が渋谷川の真上に建っている
・宮益坂下交差点の位置に宮益橋があった
・宮下公園の下が宇田川新水路合流口である
.....くらいのモンである。幾つかの暗渠化前の写真と、オレのバイブルでもある畠山直哉氏の写真集"Underground"に載っている暗渠内の写真でしか知らない、渋谷川暗渠の中。
撮影スタッフの中にひとりだけ過去に撮影のために入ったことがある、というメンバーがいたのだが、「暗いよ/臭いよ/ジメジメだよ」みたいなことしか覚えておらず(泣)、着替えを用意して長靴履いてライト持って行く、というアバウトなことしか決めず(もっともドキュメンタリーなんだから当然か)。
で、オレとマネージャーがちょっとTV的なことを気にして、大袈裟に"洞窟探検隊"みたいな格好をした、というワケ。
誰ともなく「か〜わぐっち〜ひろしが〜どうくつには〜いる〜♪」("ゆけ!ゆけ!川口浩!!"/嘉門達夫)と歌い出すスタイル
渋谷川自体には2006年夏、このno river, no lifeのトップ・ページ用の撮影で入った/降りたことがある。真夏だったせいか普段は全然蚊に食われないオレの周りに一斉に蚊が群がり、上流(暗渠内)から如何にも、っていう悪臭が漂って来たのと「5mってこんなに深いのか」と感じたのを覚えている。
撮影手順のこともあり、今回もオレが最初に降り立った。暗渠となる稲荷橋のひとつ下流よりに架かる金王橋である。当たり前だが、2年前と全く同じ景色/空気。自然に「ただいま」と呟く。
3面コンクリートの高さはオレの肩くらいだから1.6mほどなので、その上の護岸部分が約3.4mということになる。足元はヌルヌルと滑る。ここは雨水しか流れて来ないので水量は少なく、晴天が続けば干上がる寸前くらいだが、それでも常に濡れているが故のヌルヌル感である。
金王橋下から上流/稲荷橋暗渠部分を望む。この日は曇り空だが雨もなく、水は"流れる"とまでは言えない程度
こちらは同じ金王橋下から下流/八幡橋方向のアングル。右上を東急東横線の高架が走り、八幡橋の手前あたりから左へカーブするのが解る
潜入口となる稲荷橋を下から見たところ。すぐ上は歩道部分で、国道246号線部分は既に暗渠構造であり、橋は歩道部分のみなのが解る
稲荷橋直前の右岸側にある合流口。排水溝なのか渋谷川の支流跡なのかは不明
丁度ここから宮益橋手前/東急東横店東館あたりまでの渋谷川暗渠は、1961年(昭和36年)から1963年(昭和38年)にかけて行われた暗渠化工事に際して、元々現在より西側(駅付近)に近いルートを流れていた渋谷川をやや東にずらして作られた、言わば暗渠化用の新設水路、である。翌年の東京オリンピック開催に合わせ、国道246号線と渋谷駅東口ロータリーの整備が同時進行で行われたのである。

1947年(昭和22年)GHQ撮影による渋谷駅付近の航空写真。点線部分が東京オリンピック開催に向け、1963年(昭和38年)の暗渠化のために新設される水路部分(番組の潜入ルート)
左は1961年(昭和36年)、暗渠化前提の新設水路建設の始まった渋谷川の様子、右が現在、つまり我々の潜入ルート。丁度東急東横線渋谷駅構内と、バス・ロータリーの間あたりである。.....ちなみに、当時この暗渠化工事を請け負った某・大手建設会社に、オレと同い歳の幼馴染み/大親友がいる。幼い頃から一緒に渋谷で遊び回り、44歳の現在、同社でそれなりの役職に就く彼は番組を観て「複雑な想いだった」と打ち明けてくれた
言うなれば、同じオリンピック・ベイビーでもある渋谷川・渋谷駅付近暗渠。
担当ディレクター、撮影スタッフ3人、そしてオレのマネージャーと総勢6人で稲荷橋の下から渋谷川暗渠内へ潜入開始。

金王橋から見た際にも確認出来るのだが、稲荷橋の下から暗渠真ん中よりやや右手に、高さ約70cmほどの分離帯のような仕切りがある。これは1963年(昭和38年)の暗渠化工事の際、工事用の仮水路を作った時の擁壁なのである。出口にあたる稲荷橋下ではほぼ完全な形で残っているが、奥に向かうと徐々に破損が酷くなり、20mほどで終わっている
先頭者(オレか、オレを正面から撮る際にはスタッフ)がバッテリー・ライトを持ち、照明の一切ない暗渠内を進む。何しろ怖いのは足元。暗渠入り口付近は瓦礫の山が散乱しており、水のない部分との差が激しい。更に時折ある段差(水を円滑に流すため、上流から手前に向け何段階かある)が特に滑る
暗渠内天井部分は意外なほどしっかりした造りに見え、色もくすんでおらず、決して44年という歳月を感じさせない。恐らく水位が上昇することもなく、外的要因もないことから保存状態が良いのだろう
コンクリート舗装の路面。普段は雨水渠となっているため、雨の降らない日が続くと水は極端に少ない。が、畠山直哉氏撮影の"Underground"にはコウモリ、ネズミ、カマドウマ、そして小さな魚が掲載されている。もちろん彼がこの暗渠を何処まで辿って行ったのかは解らないので実感はなかったのだが、カマドウマの"大群"はいた。オレのマネージャーは魚を見たと言う。壁にはコウモリの糞が付着.....渋谷川の生態系の一端を垣間見ることが出来た
最も路面が荒れていた部分。新水路は当初から暗渠化を目的に作られたからか、投棄、ではなく工事完了時の残骸、という印象である

上流へ進むと、徐々に水量が増えて来る。それでも大量ではないので、コンクリートで作られた平面の上を、自然の小川のように水が弧を描いて溜まっている感じに見える
畠山直哉氏の写真集"Underground"を見ると、色鮮やかな色彩を放つ、黙って誰かに見せたら暗渠内の写真とは思えないような美しい写真がある。オレは地上から「これって撮影や編集段階で何か手を加えてあるのかな」と思っていた。.....違った。技術はもちろん、自分には安物のデジカメしかないので不可能だが、渋谷川暗渠内の水は、角度によって写真と同じ、いやそれ以上の色彩を放っていた!。あれは特殊な見せ方なんかじゃなかった。畠山氏が、そこで眼にした美しい光景を、可能な限りリアルに撮った、ってことなのだ。.....やっぱカメラマンって凄い。そして.....自分にはこの美しさを伝えられないのが悔しい!
on airにも登場するのだが、途中いくつかの合流がある。殆どが直径1m程度の円筒形で、ゴム製のカーテンが取り付けられている。カーテンを見る限りそう古いものではなく、これは定期的に交換されている模様
暗渠化と新水路完成がほぼ同時なため、いったいどれが支流の合流でどれが排水溝の流れなのか、は解らない。いずれも真上ではなく斜めに掘られており、最低でも河川から5mは離れた位置からのものと思われる
on airにも使用された、撮影中に突然水が流れて来た場面。バケツをひっくり返したくらいの勢いがおよそ30秒ほど続いた。匂いはなく、汚れた印象もない。ちなみに左岸側。.....右岸側なら渋谷駅/東急百貨店東横店があるが、こちらはロータリー。この場所から推測出来る建物などがなく、この水の正体は謎のままである(スタッフ間では"TVの神様がくれた水"と呼ばれている/笑)
on air後に多くの反響のあったこの場面。地上の排水溝からタバコの吸い殻が暗渠内に落ちていたのである。稲荷橋以降の開渠部分を上から見ていて、まさか暗渠内に排水溝から直接ゴミが落ちる、とは考えていなかった。路肩にある四角い網状の下へ落ちる前に、何処かで止まっているものと思い込んでいたのだ
暗渠内両側に約10mおきにある天井の丸い穴。そこだけ光が差し込み、下から覗き込むと網状の蓋を境に地上/空が見えていた
そしてその真下の状況がこれである。.....量から見て、定期的に清掃されていることが解るが、それは安心材料ではない。見ての通り、水量の多い日には下流へと流されてしまう
これが上の写真の排水溝を地上から見たところ。眼の前はスクランブル交差点
網状の四角い枠の下にある丸い穴、これがそのまま渋谷川暗渠内へ落ちる
新宿御苑/四谷付近に源流を持つ渋谷川は、国立競技場や原宿を通り、渋谷駅東口へと辿り着くわけだが、前述の通り、現在暗渠になっている部分の内"河川"なのは宮益橋〜稲荷橋間のみである。それよりも上流は下水道・千駄ヶ谷幹線として整備され、下水道局の管理下。今回我々が潜入許可を貰ったのは区役所なので、河川部分のみ。
ここまでにオレが知っていた情報は、宮益坂下交差点にある(あった)のが宮益橋、そこにはゴム製の巨大なカーテン、その数10m先に宇田川新水路の合流があり、その上は宮下公園であること。よって、カーテンの先に宇田川合流口が見えたら我々の潜入はそこで終了、ということ。
が、まだ水車がある頃の明治時代の宮益橋を写真で見たことしかないのと、その巨大なカーテンが果たしてめくることが出来る程度のものなのか、がオレにとって謎の部分だった。

.....そしてそれは、周囲を気にして進んでいた我々の進行方向に、本当に突然現れた。ゴミなどが流れ込むのを防ぐためなのか、侵入者を防ぐためなのか.....それはまさに"結界"と呼ぶに相応しかった。

目前に巨大なゴム製のカーテン。周囲の排水溝や徐々に増えて来た水量に気を取られ、数m手前まで気付かなかった。前方にライトを向けた瞬間、思わず声を上げそうになったほど
オレのイメージの中では、神田川笹塚支流が神田川本流に注ぐ合流口にあるカーテンが想像の限界だった。または落合の神田川/妙正寺川の合流(ただしここはあまりにもデカい)にある、黒いカーテンが上から"ぶら下がっている"という状態(水面部分には隙間がある)。今眼の前にあるのはどちらでもなく、まるで鋼鉄製の板を打ち付けたかのような、全くもって隙のない、完全な結界だったのである
神田川/妙正寺川合流(落合)のゴム・カーテン。.....ヒジョーに余談だが、川が落ち合うので落合という
つまり、我々が今いるところは、見たことのない"宮益橋"なのだ。

1947年(昭和22年)、米軍空撮による宮益橋付近。手前の東急東横店(昭和9年建)と道路を隔てた先に流れが見え、更に上には宇田川合流口もある。この時点で既に宮益橋は橋としての機能を果たしておらず、道路の下は暗渠入り口、と考えるべきである
1901年(明治34年)の、渋谷川と宮益橋の姿。右手は渋谷小学校(現在は東急文化会館跡地付近)。アーチ型の小さな橋に比べ、渋谷駅東口ロータリー付近がまるで池のように広い様子が良く解る
結界のカーテンの手前に、宮益橋の橋桁が残っている。東急東横店地下付近からここまでは昭和初期に暗渠化されているため、明らかに新水路暗渠とは年季が違う。今我々が眼にしているのは暗渠でも道路でもなく、橋時代の宮益橋なのである
1931年(昭和6年)に渋谷川下流部分の橋が一斉に修復工事を受けており、東急東横店建設が1934年(昭和9年)であることから、最低でも70年以上前のもの、ということになる
.....そして、これが最も"謎"の発見。場所は宮益橋手前右岸側。一見赤いレンガを積み重ねたように見えて、実はコンクリートの上にからブロック上の薄いプレートを貼付けてある、高さ1mほどの一角。決して理路整然と並べられたわけでもなく、剥がれ落ちて剥き出しになったコンクリート部を見ると古そうに見えるが、外側はさほどでもない。もっとも暗渠内で大きな損傷を受けるとも思えないが、明らかに景観を意識したデザインである。だが、ここは川底なのだ。まず1mの高さでこのデザインが行われる理由が解らない。また、宮益橋付近の暗渠化当時の写真のいずれを見ても、この手のデザイン/構造は見当たらない。.....これはいったい何だったのだろうか
1964年(昭和39年)の宮益橋から上流。すぐそこに宇田川合流が見える。が、問題の赤レンガ風の建造物、またはそれに繋がるようなものは見当たらない
謎めいた宮益橋の遺構。そして、この巨大な結界の向こうには、上の写真に見える宇田川新水路との合流口がある筈である。それはつまり、新宿御苑から流れて来た渋谷川に、オレの故郷・宇田川が注ぐところであり、その上流は20年暮らした"春の小川の街"代々木、つまり高野親子が散歩した河骨川。中学校側の初台川の湧き水も、JICAの池の水も、子供の頃ザリガニ穫った松濤公園の池の水も、みんなみんなここへ流れて来ている、という証し。今まで、どんなに調べたって、どんなに歩いたって、結局この眼で見たことがない、オレが生まれる寸前まで流れていた川達。
逢いたい。春の小川に逢いたい。
.....逸る気持ちを抑え、カーテンに手をかける。想像以上に重い。それにヌルヌルとしていて上手く掴めない。やむなく体重をかけ、動いた部分に身体を潜り込ませる。気付くと、スタッフが皆手を貸してくれていた。グッと隙間が出来、眼の前に空間が広がった。

遂に、春の小川に逢えた。
多くの人が畠山直哉氏の"Underground"を見て「きっとこれが宇田川の合流口の筈」としか思うことの出来なかった光景。それと全く同じものが、今オレの眼の前にある。昭和初期に作られたアーチ上の石組、一段高い位置から注ぐ合流口の構造、地上の遊歩道と同じ角度のカーブ.....もちろん、信じてなかったわけじゃない。物理的にも、歴史的にも、そして証拠としてもそれは確かなものだった。が、実際に蓋をされた川達が、今もこうして川である、ということが嬉しかった。この眼で確かめられたんだから、これ以上幸せなことはない。
こちらは畠山直哉氏撮影による写真集"Underground"掲載の写真。この作品にはどの写真が何で、といった注釈は一切なく、ただ想像とGHQの航空写真との比較によって「きっとここが宇田川」と考えるのみだった
宮益坂下交差点を超え、駐輪場を通り、宮下公園/駐車場との境界が西武デパートA館・B館の間を通って来た宇田川新水路の合流点である。ほんの入り口(というか出口)のみではあるが、オレは44歳にして初めて、45年前に見えなくなった故郷の川・宇田川に、96年前に"春の小川はさらさら流る"と唱われた河骨川の流れに、遂に出逢うことが出来た。

マネージャーが色々記録してくれているのと、撮影されたテープにはその間のことが記録されている筈だが、本人の記憶には、もしかしたら人生44年最大じゃネエかってくらいの笑顔で「ただいま!!」と絶叫したことしか覚えていない。あとは.....レポートにならなくて申し訳ないが、ただひたすら泣いてただけだったと思う。

そして、「春の小川に逢いたい」というオレの"叶わぬ"筈の願いを叶えてくれた番組からのプレゼントがもうひとつ。春の小川記念碑の前でメソメソしながらボソボソと春の小川を口ずさんでいたオレが、ここで春の小川を歌う。
そりゃあね、TV的にそれがなきゃ意味がないのも事実。でもね、誰にも頼まれなくたって歌うよ。ひとりの音楽家として、同じ渋谷の人間として、高野辰之先生が見た川を、蓋がけ以降に実際に見ながらこの歌を歌ったヤツなんていないんだから。
パイオニア気取りなんじゃない。もちろんオレじゃなくたっていい。誰かが聴かせ、誰かが詫び、誰かが感謝しに来たっていいじゃないか。
誰もやらないからオレがやる。ただそれだけ。

28年間、音楽を演って来た。歌詞や曲を作り、編曲をし、録音などの制作分野や他人様のプロデュース、なんてのもやって来た。ギター、ピアノ、ベース、ドラムやらヴァイオリン、マンドリンアレコレ.....。"歌う"こと以外の全てをやってやる、出来ないものがない!ってくらい何でもやってやる、と思って頑張って.....いや、意地になってやって来た。
歌い始めたのは3年前。歌わなかった理由は「自分の声が嫌い/理想と違う」その代わりに、歌い手のために全てが出来る男になろうとした。いや、なったんだろう。40歳を過ぎ、もういい加減逃げてる場合じゃネエぞ、とひとりで歌い始めた。好きな音楽はいっぱいある。曲も。が、歌い手として最も好きな曲、と言うのがなかった。
そして、"春の小川"という曲と出逢った。いやもちろん学校で習ってるワケだから、3代目の歌詞を2番くらいまでは覚えてる。が、それが自分の暮らした街の、ほんの数十年前の姿だなんて考えもしなかった。でも何処かで誰かに聞いたり見たりしていたのだろう。深く考えなかったのか、右の耳から左へ受け流していた(古い)のか.....。
それが今、オレが"一生背負って行く歌"になった。そりゃもっと上手で、もっと有名な誰かの方が良いだろうさ。でもま、背負うのはオレの勝手だ。高野先生、岡野先生、許してね。

.....全くもって遠足と同じ。どうして帰り道はこんなに早いのだろう。ま、往路ほどウロウロしてないからなのかも知れないが、あっと言う間に光が見え、あっと言う間に稲荷橋へ帰還。

その間およそ160m.....往路はその3倍、復路は半分ほどに感じた
宮下公園/渋谷川・宇田川暗渠合流地点。"Underground"に載っていた合流口は確かにこの下にあった
こうしてオリンピック・ベイビーは叶う筈のない夢を叶えて貰い、愛する小川達に出逢うことが出来た。そしてそれがTVで流れ、また2年半前のオレのように「え!地下に川があるの?」という人を生んでしまっているのだろう。それが「遺跡探検」のような興味本位なのか、歴史的事実に対する勉強なのか、怒りなのか.....それはオレにはどうすることも出来ない。が、観てくれた方々が何かを感じ、何かに気付いてくれたのなら、こんなに嬉しいことはない。そして、何よりもこんな素晴らしい機会を与えてくれたNHKと番組関係者の皆さんに心から感謝します。

.....故郷を流れていた川のことを、親を含め誰に聞いても「ドブ川だ」って言われて、でも、高野先生だけは「スミレやレンゲが咲く、優しくて美しい小川」と教えてくれた。
まあね、そこにあったのはコンクリートの地下水路さ。でも、思い浮かべる、ってことがこんなに純粋に出来たのは、生まれて初めてかも知れない。
信じてみるって、いいね!。


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