第五章・桃園川complete
第五章・第七節/阿佐ヶ谷川と呼ばれた流れ

阿佐ヶ谷.....正確には"阿佐谷"と表記するこの地は、文字通り浅い谷地形の両側に広がる。浅い谷とはもちろん桃園川流域を差し、高円寺同様、駅/JR線を挟むように阿佐ヶ谷北/阿佐ヶ谷南のふたつの住所を持つ。かつての馬橋は現在の阿佐ヶ谷と高円寺の中間部であり、馬橋の名は1965年(昭和40年)の住居表示変更時に消え、阿佐ヶ谷と高円寺が馬橋を半分ずつ吸収したような形となった。現在も馬橋の名は学校や公園などに多く残されており、町名ではなく地区として認識されている名、と言って良いだろう。
また、JR駅の高架ホームから改札へと降り、南北に出口+ロータリーを持つこの阿佐ヶ谷駅、別項にも書いたが高円寺駅ととても良く似ており、アーケード商店街を抜けて青梅街道へ辿り着くと東京メトロ丸ノ内線の南阿佐ヶ谷駅となるあたりも、同様に新高円寺駅を持つ高円寺と極めて近い印象で、冗談ではなくたまにどっちにいるか解らなくなることもある。両駅と西荻窪が休日になると快速が停まらないあたりも含め、こうして鉄道誘致に関わる経緯を知ると、その理由も少し解ったような気がする。
JR阿佐ヶ谷駅。高円寺/西荻窪と共に、土日祭日に快速が止まらない駅
ちなみに住居表示として正しいのは"阿佐谷"で、"阿佐ヶ谷"は駅名及び通称。"阿佐ケ谷"と表記されることもある
大きなアーケード商店街、阿佐ヶ谷パールセンター。中野のサンモール、高円寺のパル/ルック同様、駅ロータリーから延びるメインの商店街である
こちらは1955年(昭和30年)当時の阿佐ヶ谷パールセンター。まだアーケードにはなっていないが、名物七夕祭りは既に行われている
さて、JR阿佐ヶ谷駅南口からロータリーを見ると"川端商店街"の文字が眼に入る。もちろん、川はない。しかし、後を振り返ると、そこには桃園川緑道のスタート地点である、けやき公園が存在する。川端商店街の方向は、駅南口から見て当然南方向、つまり青梅街道の高台へと延びている。これはつまり、ここに桃園川の谷へと向かって来る河川が存在したことを物語っている、と言うことだ。かつて地元の方は"阿佐ヶ谷川"と呼んでいたらしい。
これは、もしや天沼弁天池に続く、桃園川の源流のひとつなのではないか。では一旦桃園川/けやき公園まで戻り、この川端商店街へと向かってみることにしよう。
全く川が見当たらない川端商店街。.....某誌の取材で"暗渠の条件"に「地名に川や橋の文字が入っている」を入れたが、これがまさにそういうこと
前方にJRの高架が見える、阿佐ヶ谷けやき公園。高架の先へと、天沼から流れて来た桃園川が続く道である
川端商店街へとガード沿いを進む。進行方向が上流となる
メインとなるパールセンターなどに比べ、やや"場末"の感がある川端商店街
商店街を辿って行くと、唐突に釣り堀が現れる。道路の舗装は明らかに暗渠道仕様
どうしてどうして、休日ともなれば親子連れや釣りファンでこの賑わい!

1963年(昭和38年)の阿佐ヶ谷川下流の様子。釣り堀は現在と同じ位置にあるが、規模は今よりも大きかったようだ
この釣り堀の奥にはかつて大きな溜池が存在したらしい。それ以外にも、川沿いの各所に池や沼が多数存在し、付近の家は井戸水での生活が当たり前だったそう。何より、釣り堀の存在そのものが水源に近い河川の存在を物語っている。
住宅地へと入って行くと、まだ真新しい車止めと暗渠蓋が道路片側に始まる
しばらく進むと今度は古い石蓋と昭和中期の暗渠ブロック。.....上流に向かうに従って、だんだんと暗渠化当時の様子へと近づいているよう
唐突に暗渠道は終わり、眼の前に壁が立ち塞がる
暗渠の行き止まり/もっとも、こちらが上流なのだから行き止まりというよりも分断された流路が再開されるポイント、ここに立ち塞がるのは杉並第七小学校、通称"すぎしち"である。
神田川笹塚支流などでも実感したことだが、河川流路が学校内を通っているケースは非常に多い。言わずもがな、校庭などの"逃げ道"が可能となり、特に区立の学校は行政的にも好都合な存在なのである。
1928年(昭和3年)創立の"すぎしち"こと杉並第七小学校。阿佐谷南3丁目、桃園川の谷を見降ろす、青梅街道の高台に建つ
すぎしちを挟み、暗渠が途切れた位置から丁度真っすぐ結んだ位置に再び始まる、古い石蓋暗渠
暗渠は始まった途端に急な左カーブを描く。前方が上流なので、正しくはこの位置で右に急にカーブする、ということ
マンション敷地脇を辿って行くと、またも流路は途切れてしまう
流路はマンションへの敷地奥へと消えてしまい、それ以上の上流を見失っていたオレを見つけた、生まれた時からすぎしちの眼の前にお住まいと言うW林さん(56歳/一見強面)が、住宅地に入り込む石蓋暗渠の案内を兼ねてお話を聞かせてくれた。当然ご自身もすぎしち出身で、かつ暗渠化以前の川をご存知の方、である。
「この川、荻窪の方から青梅街道をずっと流れて来て、このすぐ裏からこっち(すぎしち方面)へ曲がって来てたんだよ」
彼が指差し、案内してくれた方向を見た瞬間に全てが繋がった。
.....阿佐ヶ谷川と呼ばれていたこの川の正体は、実は千川上水からの分水である六ケ村分水の最後の分水跡だったのだ。井草や天沼などで細かく分水を行った後、最も東寄り、言わば六ケ村分水のゴール地点に選ばれたのがこの地であり、天沼以外にも最終的に桃園川へ注ぐ六ケ村分水が存在していたのである。
.....完全に周囲の住民以外は立ち入らない(W林さんに感謝!)位置にあった石蓋暗渠の続き。前方に青梅街道が見える。六ケ村分水の6つめこそが、阿佐ヶ谷川の正体だったのだ
「で、昔は学校の中に川があったらしいんだけど、俺が子供の頃は学校の両側に分かれて流れてたよ」
.....両側?。
確かに上(青梅街道側)から見ると、現存の水路暗渠は学校の真裏にあたるため、本来直線で結ばれていた水路を迂回させるためには学校敷地の左右どちらでも可能である。が、「両側に」というのは驚きである。元々は学校敷地の真下を流れていたのかも知れない。それが人口増加や宅地化で、いったいどのように流路が変化して行ったのか.....。
1947年(昭和22年)、GHQによる戦後間もないすぎしち上空からの写真。青梅街道には既に何の痕跡もないが、手前(上流)から、確かに左右に枝分かれする流路が写っている
「どうでもいいけど、ドブ川だよ」
解ってますって。ただ、元からドブだったんじゃない。その流れの恩恵を受けたのも、ドブにしたのも、蓋をしたのも、オレ達自身だから。
「そんな格好(金髪+サングラス)でウロウロしてっと怪しまれるよ。ま、誰かに何か言われたら『W林さんに許可貰ってる』って言いな」
.....あ、ありがとうございま〜す.....。


"阿佐ヶ谷川"は、千川上水・六ケ村分水の下流流路であった。もちろん谷筋に逆らったものではないので"川"と呼ぶことに異論はないが、玉川上水に始まり千川上水を経て、六ケ村分水という杉並の農村へ向けた救済処置の最後の一滴がやはり桃園川へと注いでいたのは、この地域の水不足を再認識させるに充分なものであった。昭和中期に多くの近代・阿佐ヶ谷住民が「小さな川の多い街」と捉えていたのも無理もない。それらの多くは、元々極端に"使用に耐え得る"水源は少なかった杉並中央地域の、深刻な問題との闘いの跡なのである。

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