第四章・where is 渋谷川?
第四章・第二節/渋谷川源流・内藤新宿
新宿御苑内の池を水源とし、代々木や神山町、宇田川町などから支流を集めて渋谷駅方面へと流れていた渋谷川。オレ自身の拠点(1964records)から、生まれ育った渋谷の街を抜けて行ったこの川は、支流も含めてことごとく1964年(昭和39年)以前に暗渠化されており、「ここから先は滅多に行かない」場所で初めて地上にその姿を現していた。言い換えれば、オリンピック・ベイビーのオレにとっては"40年以上、常に共にあった筈なのに交わることのなかった川"だったのである。
ここでは、この渋谷川の流れる新宿と渋谷と言う、大都市・東京を代表するふたつの地の歴史を覗いてみよう。

新宿と言う地名は読んで字のごとく新しい宿、に由来している。江戸時代、甲州道中(現在の甲州街道)を諏訪へ向けて日本橋をスタートした旅人にとって、44ある宿場町の最初の宿場は高井戸であった。が、その間4里(約15km)はやや遠く、1698年(元禄11年)に浅草の名主高松喜六が中間地点に新たな宿場町を作ることを幕府に申請した。その地は元々信州高遠の内藤家の土地、現在の新宿御苑のあたりであった。新宿新都心に58.3haの広さを誇る新宿御苑は、元々1590年(天正18年)に江戸城に入城した徳川家康が内藤清成に授けた広大な江戸屋敷の一部であり、玉藻池付近は1772年(安永元年)に玉川上水路の余水で造った玉川園と言う庭園が元になっている。現在のような"新宿御苑"として完成したのは1906年(明治39年)のことで、つまりそれまでは内藤さん家の広大なお屋敷だったのである。その後第二次世界大戦では敷地の多くが空襲により焼失してしまうが、復興の後、1949年(昭和24年)に"国民公園新宿御苑"として一般開放され、現在に至っている。
1698年(元禄11年)、甲州街道と青梅街道が分岐するあたりが内藤新宿と言う新たな宿場となった
かつての新宿の中心部、新宿通りと明治通りが交わる新宿三丁目交差点。伊勢丹(写真正面右手)が現在のこのあたりのシンボルと言える。新宿駅東口・アルタ前(写真奥)から真っすぐ、徒歩6〜7分の距離である
丁度交差点の位置に建つ、新宿追分の元標碑。新宿追分は甲州街道、青梅街道と言った旅先への街道の分岐点、と捉えれば良いだろう。現在青梅街道はアルタの先、新宿大ガードの先で靖国通りと新宿通りが交わっている
新宿三丁目交差点付近の路上にある新宿追分元標。左手に玉川上水路も描かれている
"追分"は地名としては存在しないが、バス停などに俗称として使われている。ちなみに交差点にある交番の名も四谷警察・追分派出所
新宿追分元標の目の前にある"追分だんご"は江戸時代から続く老舗中の老舗。元々は太田道灌にちなんで道灌だんごと呼ばれていたが、いつしか旅人達によって追分だんごと呼ばれるようになったそう
少々余談に近くなるが、左が1968年(昭和43年)、右が2006年(平成18年)の新宿御苑前駅付近、つまり我が1964recordsの目の前である。40年近くが経過し、路面電車はもう走っちゃいないが後方の新宿セミナー(医療/看護系の予備校)は健在
新宿御苑大木戸門。2006年(平成18年)は1906年(明治39年)の完成から丁度100周年であった。新宿御苑には大木戸門と、新宿駅南口寄りの新宿門のふたつの入り口があり、玉川上水路は新宿門から大木戸門へと向かって流れ、渋谷川は大木戸門付近の玉藻池を水源に千駄ヶ谷方面へと流れていた
「馬で一息に廻れる広さ」として制定された新宿御苑全域
大木戸門からほど近い玉藻池。新宿御苑内には他にもいくつかの池があるが、渋谷川は上の池/中の池/下の池と呼ばれる千駄ヶ谷側の湧き水と、現在は残っていない弁天池と言う湧き水池を最上流とし、玉川上水路の余水を四谷大木戸側の谷地である玉藻池に流したものなどを加えて流れ出していた
玉藻池の谷側に見られる水路暗渠。これが大京町遊び場〜国立競技場へと続く渋谷川の源流なのだろうか
新宿御苑内から見た旧・淀橋浄水場方面.....もう、ここに馬は似合わないね.....
隣接する東京都水道局敷地内にある四谷大木戸跡の石碑。羽村から42kmにも及ぶ、江戸市民のための大水道事業のゴール地点である
現在"内藤町"の名が残るのはほんの僅かの地域。もともとは今の新宿一〜五丁目、四谷四丁目あたりが内藤新宿の範囲内であった。つまり、本来新宿は現在の新宿御苑付近で、現在新宿駅を中心として栄える一帯はかつては角筈村に過ぎず、新宿は当時とは全く様子の違う街となっているのだ
そう言うわけで現在の新宿駅、歌舞伎町あたりはかつての内藤新宿とは異なり、あくまでも近代になってからの盛り場、と言うことが出来る。そして、皆さんにとって現在の新宿のイメージはおそらく歌舞伎町/アルタ前、都庁(高層ビル郡)それにヨドバシカメラ、と言う感じじゃないだろか。だがそのどれもが歴史的には新しく、空襲で焼け野原となった戦後の復興の賜物でもある。では何故新宿がここまで巨大化したのかと言えば、それは巨大ターミナルである新宿駅、つまり多方面から多くの路線を引いた主要駅となったことが大きな要因となる。

1日340万人以上と言う世界一の乗降客数を誇る巨大ターミナル、新宿駅。JR埼京線/湘南新宿ライン/成田エクスプレス/中央本線/中央線/総武線/山手線、小田急線、京王線/京王新線、西武新宿線、東京メトロ丸ノ内線、都営新宿線/大江戸線が乗り入れる(う〜ん、書いてて唖然とした)。利用されている方なら解ると思うが、一時期オレは都営新宿線から西武新宿線に乗り換える必要があった。.....カンタンに言うと、この間"まるまる一駅分くらい"歩いて行かなくてはならない距離がある。なにしろJR(全14番線)だけでも駅が新宿区と渋谷区に股がっているほどの広さなのである。
多くの人にとって、現在の新宿をイメージした時に真っ先に浮かぶのは歌舞伎町だろう。賑わいだけでなく、犯罪や事故も多い街。かつては文化人や活動家などで賑わったゴールデン街あたりの裏通りは閑散とし、一番街は低年齢化が問題となっている。大人の街から子供の街へと変貌を遂げている、と言えるだろう
こちらは"笑っていいとも!"でも御馴染み、東口アルタ前。1980年(昭和55年)に建てられたスタジオ・アルタは三越とフジテレビジョンの共同出資によるもので、その名は"alternative"から来る造語である.....と言うワケでアルタは"オルタナ"だったのだ!
昭和初期の新宿駅東口。アルタのある位置に建つのは三越分店である
別項でも触れたが、ここには元々淀橋浄水場にあった馬水槽が移転して残されている。ちなみに馬水槽はイギリスから贈られたもので、世界に3つしか現存しないとのこと
近年の新宿を代表するのは都庁を初めとする高層ビル郡、新宿新都心。僅か40年前まで淀橋浄水場だったところである
1977年(昭和52年)の高層ビル郡.....いや、淀橋浄水場跡地.....でもなく、新宿副都心(当時)。御覧の通り草野球スペースがたくさん、と言うのがオレの捉え方だった
現在の新宿は、新宿駅を中心に見てビジネス街の西口側と盛り場の東口側、と言う区別が出来る。また甲州街道沿いの南口は近年高島屋タイムズスクエアの登場で新たなショッピング街開発が進んでいる(新宿駅にはその構造上、北口は存在しない)。前述のように現在は完全に新宿駅を中心に成り立っているが、江戸時代は更に東側、現在の新宿三丁目付近が新宿の中心であり、現在の新宿駅西口付近はそれこそ淀橋浄水場(約10万坪)が作れるほど広大な土地、角筈村だったのである。
左は1962年(昭和37年)、右は2006年(平成18年)の甲州街道・新宿駅南口付近。ここはすぐ脇(写真左手)を玉川上水旧水路が通っていることにも何度か触れて来たが、新宿駅では南口だけが線路を跨ぐ陸橋構造となっている。ここは大正時代に架けられた大正橋と昭和に入ってからの昭和橋のふたつの陸橋から成り立っていたが、老朽化と甲州街道の混雑緩和のために現在人口地盤を使った広場を建設中なのである

こちらは現在新宿のビジネス街側の玄関となっている、昭和30年代後半の新宿駅西口。まだ地下ロータリーも小田急百貨店もなく、完成間近の京王百貨店だけが建つ。また、同年この京王百貨店の地下に京王線の地下ホームが作られた
現在の新宿駅西口。独特の形状を持つ、建設当時としては画期的な地下ロータリーと、その地上部の構造が特徴的である。正面が1964年(昭和39年)開店の京王百貨店本店、左は小田急百貨店
.....新宿駅の南口と西口の紹介ついでに、オレがこのno river, no lifeを書くきっかけ(旧・初台駅)となり、かつ現在のオレのメインの足である京王線について少し紹介しよう。もっとも当然数ヶ月前まではオレ自身知らなかったことばかりではあるが、なかなか興味深い。ただし、もしもここに電車に詳しい方が検索で辿り着いた際には「違う、抜けてる!」と言った類いの突っ込みドコロ満載な"省略形"で書かせて頂くことをご了承願いたい。

新宿と八王子を結ぶ京王線(ちなみに井の頭線も京王)は1913年(大正2年)に調布〜笹塚駅間で開業し、翌々年の1915年(大正4年)に新宿追分〜調布に延長。当時は新宿ではなく、この"新宿追分"と言う駅が始発駅であった。前述の"江戸時代の新宿の中心"のあたりである。元々新宿追分駅は明治通り沿いにあったが、1927年(昭和2年)に新宿御苑よりの京王新宿ビルディングへと移動し、1930年(昭和5年)には駅名も四谷新宿駅に変更。さらに1937年(昭和12年)に京王新宿駅と改名されている。念のため書いておくと、当時の京王線は専用軌道を持つ"ほぼ路面電車"である。始発駅の新宿追分(四谷新宿)〜省線新宿駅前(現在の新宿駅南口付近)〜葵橋〜新町〜天神橋〜西参道(神宮裏)〜改正橋(初台)、と言った具合に、現在京王新線の最初の停車駅である初台までの間にこれだけの駅が存在していたのである。
1932年(昭和7年)、新宿追分駅を出発する京王線。写っちゃいないが、きっと追分だんごのお店も近くにあったんだろう
甲州街道、御苑トンネル入り口付近。丁度明治通りとの交差点である。写真正面のビルの名は京王追分ビル、もともと京王線の始発駅だったところである。当時この場所は京王の本社が建っていた
京王追分ビル脇から新宿通り方面(追分)を見ると、目の前に都営地下鉄新宿線・新宿三丁目駅がある。奇しくも京王新線が乗り入れた都営新宿線のひとつ目の駅は、元々京王線の始発駅だった場所の真下に存在するのである
こちらは1928年(昭和3年)、新宿駅南口の高架(昭和橋/大正橋)を渡る京王線。.....この後第二次世界大戦が勃発し、天神橋駅前にあった京王天神橋変電所が空襲で焼失、実はなんと京王線は電力低下により南口の勾配を登れなくなってしまう(!)。これにより、京王線は追分を捨て、新宿駅西口への"始発駅引越"を決意するのである
現在の甲州街道・京王線天神橋駅跡付近。玉川上水旧水路に沿って(左側の植樹部)、甲州街道から左手へと斜めに入って行くポイント
上の写真に写っている歩道橋には現在も"角筈"の文字が書かれている。"角"の字の後方あたりが角筈ガスタンク、現在のパークタワーである
現在もその名を残す京王天神橋変電所
玉川上水旧水路、天神橋跡石碑。左側の階段のある建物の手前に興味深いものが残っている
天神橋、玉川上水旧水路脇に今も残る京王線天神橋駅現役時代のコンクリート製鉄道柵
1952年(昭和27年)、後方に角筈ガスタンクを従え、甲州街道から新宿駅西口方面へと左折する京王線。写真手前の線路はすでに廃止された追分方面へ向け新宿駅南口の高架を渡っていた際のもの
こちらは現在の甲州街道、天神橋駅のひとつ手前にあった京王線新町駅跡(新宿駅南口は写真奥方向)。ここだけ車道が写真中央の植え込みを挟んで歩道側に張り出しているが、実はここが新町駅跡なのである。そして驚くべきは、この駅のホームは玉川上水旧水路の真上に板を敷いて作られていたそうだ
こちらは現在の京王新線初台駅(ここもう渋谷区だけど)。地下1階が改札、地下2階が2番線(新線新宿/都営新宿線方面)、地下3階が1番線(幡ヶ谷/笹塚方面)と言う特殊な造り。つまり、横に京王線の旧初台駅が存在するからだったのである
.....これまたさらにヒジョーについでなのだが、京王線沿線住民として興味深い写真をいくつか紹介しよう。京王新線開通は1978年(昭和53年)、オレが中学生の頃まで幡ヶ谷駅はまだ京王線の駅でしかも地上駅だった。ちなみに初台駅の地下化は1964年(昭和39年).....御推測の通り、実は環状六号線/山手通りが東京オリンピックのマラソン・コースに入っていたため。1964年(昭和39年)生まれのオレにとって、幡ヶ谷駅は初台を出た京王線が地上に出て来て最初の駅だったのである。普段から何気なく利用していた幡ヶ谷駅だが、良く見てみれば地上駅時代の名残りは今もあちらこちらに残されている。
左は地上時代の京王線幡ヶ谷駅、右は現在の同じ位置からの撮影。線路跡は駐輪場となり、その上には京王名義のビルが建っている。中学生当時はここの開かずの踏切に悩まされた
同ビル/駐輪場の先から初台方面を見たところ。中央の遊歩道が線路跡、左右がホームのあったところである。現在は渋谷区立幡ヶ谷駅前公園と言う名称
そのさらに先へ進むと、駐車場となり、真下を京王線(新線ではなく京王線)が轟音をたてて地下を通って行く音が聞こえた。写真奥には地上時代の鉄道柵がそのまま残っている
写真奥の笹塚駅方面へ向けて地上へと出て来る現在の京王線/京王新線の線路。元々は写真手前の道路/植え込みの位置の地上を走っていた。一番右の一本(京王線上り)だけが他の3本よりも幡ヶ谷寄り(写真手前)まで延びているが、このあとすぐに地下へ潜って行く
逆アングル。一番左の一本以外は既に道路の下である。で、なんかこの部分は京王線の"瞬間単線区間"として有名らしい
正面のビルが旧幡ヶ谷駅跡。京王線下り列車は地上時代の軌道そのままに地下を走っているようだ
.....元々、京王線地下線路で無人の駅を発見したことから始まったno river, no life、自分は廃墟マニアではないつもりだが、こうして足元を見つめたことは一度もなく、文字通りその"奥深さ"にただただ驚くばかりである。そして、今日もオレはこの地下を通って新宿追分駅.....じゃなかった、新宿三丁目駅へと向かっているのだ。
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