第三章・トーキョー・ウォーターワークス
第三章・第四節/名もなき双子川・神田川笹塚支流
新旧・玉川上水路に囲まれたオレの3軒目/4軒目の自宅のあった街、渋谷区幡ヶ谷。名前からして谷なんだから今考えれば当然だったのだがもちろん河川が存在していた。それも、玉川上水路と更に北側の神田川(神田上水)の間に位置し、多くの田畑を持つ農村地帯だった幡ヶ谷地区の切実な水まわり事情に大きく影響した川筋である。しかし、多くの水源地を併せ持ち、生活に欠かせないこの川には名前がない。杉並区〜渋谷区〜新宿区と流れるこの川は、各区の資料に於いて"神田川笹塚支流"としか表記されていないのである。

神田川笹塚支流は玉川上水新水路の通る杉並区和泉付近に主な水源を持ち、そこから玉川上水新水路(現水道道路)の北側を流れる、小さな小さな川である。途中玉川上水旧水路が避けて通った牛窪と呼ばれる深い窪地を通り、いくつかの更なる支流と合流/分割を繰り返しながら流れて行く。そしてその途中にはいくつかのドラマティックな遺構が残されている。
水道道路(玉川上水新水路)と環状七号線が交わる泉南(せんなん)交差点。杉並区和泉の南側/道一本挟んで渋谷区、と言う位置だ
第三節で紹介した玉川上水新水路跡の"レトロ昭和通り"の裏手にあたる北側の通りの更に裏に、今もドブ川となった小さな川が流れている
古い家の裏手にひっそりと流れている
こちらは和泉給水所からの玉川上水新水路の南側を流れる小さな川跡の暗渠
延々と続くマンホールの道。一度交差点をまたぎ、約100mほど続く
その数なんと114コ!!。計算上は1m以内に必ず1コマンホールがあることになる。もうちょっとなんとかならなかったんかいな.....
環七を渡ったところにあるビルの上からのアングル。中央の家と右側の駐車場を挟んで左右が双子のように寄り添って流れる小さな川筋である
神田川笹塚支流は玉川上水新水路の南北に暗渠として残っている。が、元々は玉川上水路が出来る以前からこのあたりにはもっと多くの川筋が存在していた。別項で触れるこのあたりの水源地も含め、泉南地区は水が豊な地域だった、と言うことだ。ではまず、牛窪と呼ばれる窪地(現中野通り)を超え、初台付近で合流するまでほぼ間隔を変えずに流れる双子の神田川笹塚支流を、水道道路のすぐ脇の南側支流から辿って行こう。
写真右側の上は水道道路(玉川上水新水路)、すぐ下を流れる南側の神田川笹塚支流。駐車場を挟んで左側には北側支流が進む
玉川上水新水路の土手を降りる階段。南側支流はすぐ下を流れる
おそらく南側支流の存在により、コントロール出来なかったために玉川上水新水路の土手と極端な高低差が付いているのだろう
南側支流に突如現れる橋の遺跡。左側1/3程度が削り取られて無くなっている
1957年(昭和32年)に架けられた堺橋。杉並区方南町と渋谷区笹塚の境にあったことから、昭和初期までは境橋と表記していた
前方の建物へと向かって行く南側支流暗渠
暗渠は富士見ヶ丘学園中学/高校敷地内(写真左下)へと進む
富士見ヶ丘学園。南側支流は手前の壁の向こう側、丁度グラウンドの真下あたりを流れている
笹塚十号坂商店街を横切る一の字橋跡。写真奥の富士見ヶ丘学園から手前へ南側支流が流れて来る
ほどなく現れる、片側の支柱だけがかろうじて残る明治橋跡
1本だけ撤去を免れたのは良いが、こうまでポッキリと折れていると不憫でならない
かつての牛窪、現在の中野通りに突き当たったところに残る橋跡。しかし、実は記録上この橋は存在しない
名前のない川の、地図にない橋跡。.....考えられるのは、支柱や欄干を持たない段差だけの構造のものは記録に残さなかった、と言うことだろうか
泉南のほぼ南側支流と同じ位置から枝分かれして行くように始まる北側支流は南側に比べて川幅も狭く、しかもほどなく道路と住宅地に飲み込まれてしまい、その経路を辿るのが極めて難しい。また牛窪までの間に橋跡などもなく、渋谷区の橋の記録にも描かれていないために、現在の居住者の中にはそこが暗渠であることをまったく気付かない方も多いのではないだろうか。
泉南の駐車場を挟んで左側へと進む北側支流暗渠
とにかく川幅の狭い北側支流。自転車でも対向して来たら壁にくっつかないと避けられないほどだ
ついには自転車さえも通れなくなる
丁度南側支流が富士見ヶ丘学園の敷地内に入るあたりで、大きな通りに飲み込まれてしまう北側支流暗渠
.....そのあと、北側支流はプッツリとその姿を消してしまう。古い地図と現在の地図を照らし合わせてみても確実に「ここ」と言える証拠がないまま、牛窪の谷底(中野通り)を通過してしまうのである
牛窪は、かの玉川上水路でさえも遠回りを余儀なくされてしまうほどの厄介な窪地である。ちなみに牛窪の名の由来は、戦国時代に極悪人の両足を2頭の牛に引かせ、股を引き裂くと言う残忍な極刑の場であったことと、この地が窪地であったことから来ている。また、後述するがこの地は深刻な水不足に悩んだ幡ヶ谷の農民達の雨乞いの場でもあった。甲州街道と中野通りが交わる、まさに窪地となる位置に牛窪地蔵尊と記念碑が建っている。
牛窪の谷底。京王線笹塚と幡ヶ谷の間の甲州街道の低い所、と言えば車や電車で通る人には解るだろうか
窪地に建つ牛窪地蔵尊。伝染病の犠牲者の身代わり地蔵でもある
牛窪を超えた南側支流は徐々に玉川上水新水路(水道道路)から離れ、地形的に谷底となるやや北側へと向かって進む。何故ならそのまま玉川上水新水路に沿って真っすぐ進むと再び登ってしまうからで、当然水路は北側の平地を目指して進んで行く。そして寄り添っていた南北ふたつの支流には、やがて最終的に交わる運命が待っている。
牛窪/中野通りを渡った南側支流暗渠は一旦住宅道路へと入って行く。右手に中幡庚申塔があるこの場所にはかつて庚申橋と言う橋があり、路面を良く見ると丁度庚申塔の前だけ舗装が違っているのが解る
中幡庚申塔
まさに川の流れのようにS字を描いて続く暗渠道路沿いには当然のように銭湯が。この武の湯の裏手には北側支流と、さらに小さな支流があった
渋谷区立中幡小学校(写真左手)を過ぎ、南側支流は写真中央奥の細い遊歩道へと続いて行く
遊歩道へ入った位置からの逆アングル。ここから先、南側支流は全域で遊歩道となる
やがて左手に幡ヶ谷・六号坂商店街谷底に位置する幡ヶ谷新道公園を見ながら進む南側支流
この小さな公園がオレの3、4軒目の住まいの側である
新道公園を過ぎ、商店街を横断する位置に架けられた新道橋。玉川上水路に見られるものと同タイプの再生モニュメントだ。これはおそらくどちらも渋谷区のコンセプトによるデザイン、と言うことなのだろう。写真左手は現在健康ランドとなっている銭湯。幡ヶ谷は銭湯やコインランドリーの多い街でもある
遊歩道化された暗渠上にあるふたつの橋跡、手前側が氷川橋、後者が本町桜橋。どちらも残されたコンクリート・バーの上に柵が埋め込まれただけの簡素なもの。いずれ再生モニュメントとなる運命が待っているのだろう
こちらは最近再生モニュメントとなった柳橋。橋と言うよりも車止め、と言う造り
.....一方、北側支流は牛窪(中野通り)を超えたあとも相変わらず細い生活道路として、南側支流と付かず離れずの距離を保ちながら進んで行く。裏路地、と呼ぶことすら躊躇するような横幅、ジメジメとした湿度の高さ、そして暗渠独特の匂い.....遊歩道にする程の幅もなく、ただひっそりと残るだけの北側支流には、しかし唯一の"宝"、神橋がある。
中野通りを超えた北側支流は住宅の間を縫うように進む
ほどなく北側支流唯一の橋跡、神橋の4本の支柱が忽然と姿を現す
支柱には未だ朱色の塗料が残る。対になるもう片方には平仮名で"かみはし"、背面には"昭和四年竣工"の文字
神橋を北側から見たアングル、北側支流は写真右手から左手へと流れ、南側支流は写真奥の横断歩道、と言う位置関係
.....この神橋の4本の支柱だけが当時のまま残されている理由は、単に「撤去にコストがかかるから」だそうである。では何故、南側支流の橋達は補修され、生まれ変わっているのか。おそらく南側支流は遊歩道化されているのに対し、北側支流は生活道路としても機能しないほどの規模しか持たない小さな暗渠だからなのだろう。言い方を変えれば、使い道のない北側支流には現存する遺構を撤去する費用さえかけられない、と言うことでもあり、更に暗渠化された後"忘れられた存在"となっているのだ。.....いずれにしても、北側支流には謎が多い

渋谷区立中幡小学校の裏門。ここは橋跡が段差としてだけ残っているが、その上から無造作にコンリートで覆われていた
六号坂商店街へと出て来るポイント。車やバイクで通過したら気付かないほどの小さな道でしかない
.....前述の通り、神橋以降は北側支流にこれといった遺構は何もなく、ただ暗く細い暗渠が続くのみである。おそらく当時は丸太や板切れのようなシンプルな橋が各家庭ごとにかけられていた程度だったのだろう
.....そして写真手前から流れて来た北側支流はここで大きく右折し、本流と呼ぶべき南側支流へと合流する。かつてここには千歳橋と言う名の橋があったが、現在は路面に僅かに片側の欄干跡が覗く(写真中央より左)のみである
北側支流が南側支流へと合流するポイントは付近でも極端な谷底地形となっている本町5丁目。西新宿地区を目前にしてこのあたりは住宅の密集度が高く、商店街や学校なども多い。そしてここから南北が合流した神田川笹塚支流は1本の遊歩道暗渠となって進んで行く。
南側支流、本町5丁目。写真奥中央から手前に向けて北側支流が流れ込んで来るポイント
写真右手から北側支流の合流を受ける場所にある南側支流、地蔵橋。ここにはその名の通り、小さな地蔵尊が隣接している
酒呑地蔵尊。.....かつて酒に酔って南側支流に落ち、亡くなった若者を祀ると共に、子育て地蔵としても崇められている
橋の手前の路面には"電話線"の文字が彫られている。おそらく暗渠化当時のものだろう
こちらは渋谷区立本町小学校裏門前に架けられた登下校用の橋。特に名前はない
これは.....水位を測るバー?
1940年(昭和15年)竣工の新橋。中央部分の鉄パイプを外しただけの、極めてオリジナルに近い姿を留めている
また、この辺は暗渠そのものが南北に分かれていた辺りよりも一段低くなっており、暗渠脇の側面や橋の下部には開渠当時の雰囲気が残っている
路上喫煙が軒並み禁止となっている昨今には珍しい、懐かしい灰皿塔で一服。.....ちなみにこの灰皿塔のデザイン、1964年(昭和39年)に東京オリンピック開催を記念して生まれたって知ってた?
2006年(平成18年)製の本村(ほんむら)橋。再生モニュメントとしてはもっともシンプルな形だが、写真奥側には手前には存在する中央部分の塔すらなく、これでは車両侵入防止の役に立っているのか疑問ではある。もっとも、遊歩道中央部には植え込みがあるので四輪車は入って来れず、心配無用なのかも知れない。ちなみに"ほんむら"と言う名はこのあたりのかつての地名に由来し、その後に本町となったもので、玉川上水新水路の本村隧道も同様
こちらは1955年(昭和30年)竣工時のままの姿を保つ村木橋。頭デッカチの支柱の形がモダンだ
弁天橋。こちらはほんの数年前まで1930年(昭和5年)建造の立派なオリジナルが残されていたが、どう言うわけか近代的なモニュメントと言うよりも完全に"新しい橋"と言うデザインとなった
.....かと思えば隣には1924年(大正13年)製の二軒家橋が残る.....おそらく将来的には全ての橋が新しく生まれ変わるのだろうが、その順番が良く解らない
写真右手から左手へと流れる神田川笹塚支流、二軒家橋から玉川上水新水路の通る初台方面(写真奥)を望む。流路が徐々に谷底地形の北側(写真手前)へと向かって来た理由が良く解る一枚
首都高速中央環状線地下化工事と道路拡張工事中の山手通りを目前にした位置にあった杢右衛門(もくべえ)橋跡
山手通りと方南通りの交わる交差点の名にもなっているのが清水橋。何を隠そう神田川笹塚支流唯一、地名に影響を与えている大きな橋があったところである。また、1933年(昭和8年)の現在の天皇殿下誕生の際に国旗を掲揚した二軒家町会寄贈の国旗掲揚塔が残っていることでも知られていたが、現在その地に行ってみると中央環状線工事の影響で既に撤去された清水橋欄干と国旗掲揚塔が山手通りの道路隅に道行く人も気付かないほど無造作に追いやられており、既に"昭和"が過去のものとなったことを痛感せずにいられない。
神田川笹塚支流の中で唯一地域の名称に影響を及ぼした清水橋交差点
清水橋交差点は現在地下高速道路を建設中.....地下には神田川笹塚支流が流れているのに
国旗掲揚塔の側に置かれた清水橋欄干の一部。残りはいったいどうなってしまったんだろう
.....おそらく当時はひと際高い位置に日の丸をそよがせたであろう国旗掲揚塔のポールも、21世紀の現代では周囲の建物の間にポツンと建つ低い棒、としか映らない
清水橋を山手通り反対側へと渡って続く暗渠
方南通り側へ出る大関橋跡。当時は方南通りももっと狭かった
一旦方南通り沿いへと曲がって来た流路はもう一度S字を描いてビルの内側へと続いて行く
再度方南通りに出て来る流路。隣接する駅名(都営大江戸線)は"西新宿五丁目(清水橋)"、ただし駅入り口のあるこの地はまだギリギリ渋谷区である
方南通りを超えた神田川笹塚支流はいよいよそのゴール地点に向け、かつて淀橋と呼ばれた新宿区内へと入って行く。ここまでの渋谷区内の暗渠に比べ、新宿区内に入ると遊歩道の在り方/造りがガラッと変わるのが興味深い。
方南通りを超え、新宿区へと入って行く神田川笹塚支流暗渠。この地に架けられていた交和橋は既になく、車両侵入防止のための鉄パイプ郡となっている
神田川笹塚支流脇にある二軒家公園
公園内には人口の池があるが、かつて清水橋の由来となった"清水"の湧く池があったそうだ。付近の住宅事情から察するに、この二軒家公園の場所こそがその湧き水池だったのかも知れない
.....ナンだオマエら?(笑)
新宿区内へ入って最初に出逢う橋は1924年(大正13年)製のつみき橋。欄干のド真ん中が切断され、鉄パイプにより歩行者以外の侵入が防がれている。が、実際この地に立つとこの鉄パイプの存在によって自転車はもちろん、乳母車や車椅子は通れないほど。そう言う意味では古い街並の続くこの地区ではバリア・フリーには程遠い環境、とも言える
支柱は傷みが激しく、かろうじて"つみきはし"と読み取れる程度
柳橋は1932年(昭和7年)製造。遊歩道は遊具のある昔ながらのスタイルだ
ひと際道幅の広くなる羽衣橋
ちなみに"あなたはもう忘れたかしら.....♪"かぐや姫の大ヒット曲"神田川"はこの辺りのことを歌ったものだそうだ。羽衣橋のすぐ側にはちゃんと銭湯もあり、真冬に来てみれば同じ気分になれるかも知れないね
コレがヒット曲"神田川"の舞台となった(と言われている)銭湯、羽衣湯。現在はサウナなども備えた近代スパ風だが、発表当時の1973年(昭和48年)にはもっと"横丁の風呂屋"然としていたのだろう
こちらは神田川を更に下った桃園川緑道(桃園川暗渠)との合流地点に建つ神田川記念碑
1938年(昭和13年)竣工の長者第一號橋。.....きっとこのあたりにかつて長者が住んでいた、と言うことなのだろう。神田川笹塚支流の暗渠上に現存する橋はこれが最後である
長者第二號橋跡。写真右手の町内会掲示板が"淀橋町会"なのが泣ける。.....そして目前に大きな空間が迫り、杉並区和泉から双子のように寄り添い、そしてひとつになった神田川笹塚支流は、いよいよそのゴール地点へと向かう
目前に現れたのは神田川本流である
対岸からのアングル。.....弱く小さな流れながらも、これが長者第二號橋跡の真下から確かに本流に注ぐ神田川笹塚支流の姿である
太く大きな神田川本流へと注ぐ、1947年(昭和22年)当時の神田川笹塚支流の姿。細く小さな流れは南北ふたつの支流の合流や牛窪の谷越えなど、いくつものドラマを経て確かに本流へと注ぎ込んでいた
.....杉並区和泉からおよそ3km。たったそれだけの距離に、多くの遺構と現代への再生策を持った南側支流、対照的に神橋以外には何も記憶を持たず、無用の長物と化した北側支流。そして両者は交わり、そして本流となる神田川へと確かに流れ込んでいた。暗渠上を歩きながら、何度も"ここに川があった"と言う感覚に陥ったが、そうではない。こうして川はオレの歩いて来た道の下を、今も確かに流れていた。"あった"ではなく"ある"なのだ。

そしてオレは、神田川笹塚支流の暗渠化は1964年(昭和39年)だったことを知る。

自然と涙が溢れた。今、こんなにも愛して止まない、オレが暮らした家の側を流れているこの川は、またも"オリンピック・ベイビー"であるオレの誕生の瞬間に蓋をされていたのだ。.....そして、オレの心は今も流れ続ける、この神田川笹塚支流の源流を探ろうと決めた。
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