第三章・トーキョー・ウォーターワークス
第三章・第五節/和泉を巡る水源と河川
新旧・玉川上水路、そして神田川笹塚支流らを擁する杉並区和泉〜渋谷区幡ヶ谷〜西新宿、と言うライン。これがそのままオレの生活圏内となるわけだが、ここではそれぞれの地区の歴史と水源地を辿って行こうと思う。名前からして豊富な水源を持っていたであろう和泉。上水路沿いでありながら雨乞いが必要だったと牛窪地蔵に書かれている農村地区、幡ヶ谷。そして淀橋浄水場以前には滝までもがあったとされる十二社。そこには谷地形だからこその水を巡る様々なドラマが見えて来る。

まず、和泉。
名前の由来は神田川沿いにある貴船神社と言う小さな神社にある。元々、戦国時代までは和泉ではなく泉と言う名だったこの地名は、この貴船神社内にある小さな御手洗池が古代より"如何なる時も枯れることなく水が沸き出していた"ことに由来する。貴船神社は文永時代(1200年代)創建とされているが、果たしてこの池がいつ頃からあったのかは不明である。だが、常に絶えることなくこの池に水が湧き出ていたのは事実である。ところが1965年(昭和40年)、目前の神田川の工事の影響で突然湧き水が止まってしまった。その後、人工的に水が張られたりもしたが現在は空堀である。
杉並区和泉3丁目、神田川本流沿いに建つ貴船神社。隣に大きな熊野神社があり、別の神社だとは気付かずに通り過ぎそうなほど小さな敷地である
神田川流路変更工事以前の御手洗池。和泉と言う地名の語源となるほどの豊かな水が湧く
これが和泉の由来となった不枯の御手洗池。.....現在は御覧の通り枯れてしまっている
.....1965年(昭和40年)に枯れた、ってことは、まあどうやっても1964年(昭和39年)生まれのオレはその湧き水池を見ることは出来なかったワケだよな.....ま、そろそろ慣れて来たけど.....。
新宿/旧淀橋地区の神田川へと流れ込む神田川笹塚支流のスタート地点となる地、泉南。
読んで字の如し、和泉の南に位置する泉南は渋谷区との境に位置する。貴船神社のある和泉3丁目からは随分離れているが、神田川本流沿いにある貴船神社から新旧玉川上水路を経て泉南に至るまでの間に、明治時代以前の地図には多くの池や沼、水路などが記されている。当然、江戸時代と現代の測量には誤差が生じるために確実に「ココ」と言える場所はないのだが、建築事情などから手つかず/或は公園化されていて、所謂"怪しいポイント"はたくさん見つかる。.....正直、科学的な根拠はあまりないのだが、現在でもコンクリートの蓋の下で確かに流れ続ける神田川笹塚支流の水源となったであろう多くの場所を探って行こう。

和泉の南に位置する泉南には神田川笹塚支流の大きな水源地が存在していた筈である。特に南北の両支流が同時にスタートするのがここ泉南であり、他から流れ込む小さな支流達を差し引いても、それらがひとまとめになる独自の湧き水のある池か沼があった筈なのだ。オレの手持ちの古い地図上では確かな確証が得られないその水源地には、少なくともふたつの候補が存在する。
環状七号線と水道道路(玉川上水新水路跡)が交わる泉南交差点。写真奥が高円寺方面、手前が代田橋(大原)、右手の水道道路の行き先が新宿である
水道道路上より神田川笹塚支流の南側支流(写真手前コンクリート部分)を見おろす。流路は左から右へ。丁度この位置には住宅密集地にも関わらず、古くから駐車場でしかないスペースが存在する
別アングル。写真中央の自動販売機後方が南側支流暗渠。さらに右手は水道道路から降りて来る坂。ここは玉川上水新水路が盛り土式の水路だったことを差し引いても窪地であり、このさらに左手には北側支流への分岐点がある
こちらが北側支流への分岐点。写真右手のグリーンの鉄パイプから奥が南側支流、中央に停めてある車のすぐ左手から始まるのが北側支流。つまり丁度"このあたり"から2本の水路が始まっているわけだ
神田川笹塚支流の南北両水路の分岐点、いやスタート地点と行っても良い源流は間違いなくこの駐車場付近である。もっとも、このあたりにはこれよりも西側からも多くの小さな支流が流れ込んでおり、むしろ中間地点の池、として考えるのが妥当だ。そして、これよりやや北側には独自の湧き水の可能性が考えられるスペースがある。
神田川笹塚支流の南北分岐点の駐車場を振り返ると、細い暗渠が環状七号線方面から伸びている
流路の手前には杉並区の清掃事務局があり、その敷地の北側には小さな公園スペースが造られている
公園部入り口。が、特に公園の名前などは明記されていない
写真左手が清掃事務局の建物、奥が環状七号線となる。公園部と環七の間には木々が生えた鬱蒼とした薄暗いスペースがある
.....公園内にも関わらず、この部分には柵があって中には立ち入れない
環七の歩道橋からのアングル。右側が清掃事務局。青い柵に覆われ、完全に密閉された小さな森、と言う印象である
....ここが杉並区の清掃事務局の管理地であること、名前もない公園が隣接されていること、そして立ち入り禁止の鬱蒼としたスペースがあること.....想像出来るのは"沼地"である。建物も建てられず、公園化するにしても危険が伴う.....ここには天然の湧き水があると見て良さそうである。泉南付近には多くの水源と合流地点があり、ここは重要なポイントなのだろう
泉南よりやや手前にある和泉給水所が新旧玉川上水路の分岐点であることは前述の通りだが、この和泉給水所から玉川上水路とは逆方向に水路跡のような敷地が存在する。井の頭通り沿いに続く、柵で覆われたこの不可思議な緑地帯は途中で暗渠恒例の"遊び場"となり、そしてその一帯が水路であった証となる場所へと向かって行く。
写真中央の白い円形の建造物が和泉給水所のタンク。玉川上水路は写真右手から来てタンクの向こう側へと続くが、逆に手前の井の頭通り沿いに続く立ち入り禁止地域がある。.....ちなみにここは現在のオレの家の近くで、タクシー降りるのはだいたいこの辺
井の頭通りを左手に、前方の谷底へ向かって進んで行く緑地帯スペース。決して井の頭通りの拡張用スペースではない
右手に建つマンションの敷地とは完全に分断された一帯。立ち入り禁止の柵の中は一直線に延びるコンクリート暗渠と、その左右にかつての水路脇の土手を思わせる雑草と言う組み合わせ
やがて井の頭通りから敷地内へと降りられる階段が現れる
緑地帯は盛り土された井の頭通り(写真左手)脇に遊歩道となって進んで行く
途中には"遊び場90番"の表示。と言うわけでやはりここは水路跡だったワケだ
少しだけ遊具もあるスペースが続き、その奥のビルの駐車場スペースを通過する
.....水路跡の先に突如現れたのは神田川本流であった
下流側(流路右手)からのアングル。神田川を横切る形で通る大きな水道管。まさにこれが続いて来た水路跡の延長線上である
神田川を超えた位置の通り沿いには小さな橋の支柱が残っている
支柱には名前のようなものは何も残っていないが、相当古いもののようである
さらに裏手には水道管のような資材置き場のスペースがある
神田川を超え、更に続く水路跡
そして辿り着いたのは.....水道局であった
.....宇田川の渋谷駅付近に関してのあたりで述べたように、元々井の頭通りは水道設備用地であった。現在この水路には最大のもので直径2400mmと言うサイズの水道管が全部で4本埋設されている。まず1924年(大正13年)に東村山の境浄水場から和田堀浄水場までの約10km間に水道管が通され、1933年(昭和8年)に第二、1959年(昭和34年)には第三、そして東京オリンピックの1964年(昭和39年)に合わせて4本目の送水管が通されている。玉川上水無きあと、都心の大水道たる役目を背負っているのはこの水路だったのである。
神田川沿いを下流に向けて進み、貴船神社を過ぎたあたりの和泉橋。.....ちなみに神田川本流は井の頭公園内の井の頭池を水源とし、途中善福寺川と妙正寺川が合流し、下流で隅田川に注ぐ全長24kmに及ぶ東京を代表する河川である。当然、ここから下って行けば神田川笹塚支流の合流地点にも辿り着く
神田川沿いにも当然ながら多くの暗渠が見られる
神田川は現在河川工事中。これは度重なる洪水被害への対策として行われているもので、環状七号線の下に洪水時のために54万m3の水を溜められる調節池を建設中、と言うもの。既に調節池そのものは稼働している
写真は1981年(昭和56年)、豊島区高田付近で増水した神田川の様子。神田川は特に都市部への台風の影響を受けやすく、オレ自身も何度か地下鉄の駅が水没してるのを見たりしている
.....さて、環七の調節池を超えた所にあるこの風景に見覚えのある人、いるかな?。即答出来たらけっこうな年配者、或はマニアだ(苦笑)。ここは、1975年(昭和50年)のTVドラマ"俺たちの旅"に登場する"たちばな荘"+"お食事いろは"のロケに使用したアパートが現存する場所なのである。"夢の〜旅路は〜♪".....オレがカラオケで2曲目に歌うのは必ずコレ。このドラマの大ファンだったことも事実だが、どうやらオレは小椋佳作品のファンでもあるらしく、1992年(平成4年)に小椋作品中心のミュージカルに出演させて頂いたのが自慢(笑)。ちなみにドラマの中では井の頭線井の頭公園駅付近の下宿、と言うことになっているがここは泉南から近い杉並区方南町である。また、ここは1978年(昭和53年)の"ゆうひが丘の総理大臣"のロケでも"キッチンかおる"として使われていた
.....泉南は前述のとおり、現在水道道路と呼ばれる玉川上水新水路跡であり、かつほんの数100mほど南には玉川上水旧水路がある、いわば江戸へ向けた上水道の通り道である。やや西には現在も和泉/和田堀の給水所を持ち、笹塚にはこれだけ都心部でありながら玉川上水旧水路が350年前の姿で保存されており、和泉に至っては"如何なる時も枯れることなく水が沸き出していた"池を持っていた。こう言った要素からは、このあたりは水に縁のある土地、と言う見方が出来る。
.....ところが、そうではなかった。
水源地などについてアレコレ調べて行くうち、農村地区幡ヶ谷の抱える深刻な水不足問題と、それにまつわる地元民の苦悩が浮き彫りになって来たのである。.....そう言えば、何故ここから先にだけ新水路が造られたのか?、そして何故牛窪では"雨乞い"が必要だったのだろうか.....?。

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