第三章・トーキョー・ウォーターワークス
第三章・第三節/命短かし・玉川上水新水路
1992年(平成4年)から住んだ渋谷区本町(幡ヶ谷)、いやこの世に生を受けてから39年間を過ごした渋谷区に別離を告げ、2004年(平成16年)から加瀬竜哉は杉並区民となる(転居理由はまたしても大家の立ち退き勧告による)。ちなみに我が家は幡ヶ谷内でもう一度引越している(ほんの数m)ので4度目の転居である。最寄り駅は京王線+京王井の頭線の明大前駅で、杉並区とは言っても世田谷寄りの端っこである。とりあえず目を引くのが、家のすぐ目の前を通る巨大なコンクリート製の水道管、と言うロケーションだ。
.....不動産屋に車で連れて来られた際はあちこち廻った後だったので全く気付かなかったが、実はここは前住所の幡ヶ谷を通る水道道路(新玉川上水路)の延長線上であった。それも、すぐ脇にある和泉給水所は新旧の玉川上水を分ける分岐点であり、しかも代田橋で終わっている水道道路(もちろん新玉川上水路後だとも知らずに)に先があるとは考えもしなかった。それどころか、本人曰く"都落ち"の明大前でまたも同じ水路で繋がっていた、と言う事実が驚きだったのである。
在りし日の玉川上水新水路。1903年(明治31年)、汚染された旧水路に変わって杉並区和泉から淀橋浄水場まで新設された
周囲の住宅地よりも一段高い位置に盛り土をするような形で造られた水道道路。全長僅か4kmあまりだが、甲州街道と平行するため、交通量は適度に多い
盛り土による形状が良く解るアングルの一枚。また、近代水道化によるコンクリート護岸の上水路と未だ農村地帯の代々幡村(幡ヶ谷現在の付近)とのギャップが興味深い
上水路でありながら、1870年(明治3年)〜1872年(明治5年)の2年間は貨物船の通船が許可されていた。これも水質の落ちる原因となったと言われている
関東大震災などで壊滅的な打撃を受けた新水路。笹塚付近では水路決壊により大きな洪水被害が出た
新玉川上水路は1903年(明治31年)に水質の落ちた旧玉川上水路に代わる水路として造られたが、関東大震災などで復旧困難な打撃を受けた後に戦争激化によって水路としての使命を断たれ、その後1937年(昭和12年)に道路として生まれ変わった。水路としては僅か十数年の命、既に道路としての期間の方が遥かに長くなってしまっており、むしろ旧玉川上水路に比べて水道道路と言う名を持つ割には存在感の薄い新水路、と言える。玉川上水は多摩川の水を羽村から新宿へ向けて送る43kmの道程だが、新水路は残り僅か4km程度と言う地点から始まる。1992年に引越した幡ヶ谷はまさにこの新水路/水道道路沿いにあり、現在の明大前の住居は丁度新旧の玉川上水路の分岐点にあたる。第三章旧玉川上水で触れなかった代田橋より手前の部分だが、実は杉並区内は玉川上水路が全て暗渠化されている。現住所よりやや手前の京王線下高井戸近辺は遊歩道化されており、そこから甲州街道沿いに永泉寺緑地となって保存されている。やがて明治大学和泉校舎敷地内へ入り、同大学正門で大学の敷地の周りに沿って曲がって行く。その後京王井の頭線の線路(明大前〜永福町間)の上空を通り、和泉給水所へと進む。その間、一旦巨大な水道管が地上に出現する区間があり、実は現在の我が家はその水道管が目の前、と言うロケーションなのである。
下高井戸付近を甲州街道沿いに進む(写真上から手前へ)玉川上水路暗渠。残念なことに杉並区内の玉川上水路は殆どが暗渠化されてしまっている
道幅の広い公園のような遊歩道。時折横切る道路に橋が残されていることは多い
水のない水路にモニュメントのように架けられた石板の橋。奥に見えるのは現存する下高井戸橋
広大な霊廟を持つ永泉寺の脇の区間は永泉寺緑地と名付けられ、中央に水路を模した道路を持つ遊歩道となっている写真右手には永泉寺の広大な墓地が広がっている
永泉寺緑地を過ぎ、明治大学和泉校舎敷地内(写真右手)に入る
昭和初期の明治大学和泉校舎(当時予科)脇を流れる玉川上水路の姿。その後の甲州街道の拡張を差し引いても、左の写真とほぼ同一アングルと思われる
明治大学和泉校舎正門、玉川上水路は写真左手の大きな木のあたりから右手に向かって流れていた
左手が明治大学和泉校舎、所謂"明大前全景。写真右手は甲州街道、写真左手から甲州街道沿いに流れて来た玉川上水路はここで左折し、写真中央奥へと向かう
明大橋と名付けられた明治大学正門前の橋跡
水路の暗渠は玉川上水公園と言う名の細長い小公園となる
水路は写真中央の大きな木のあたりから手前に向け、大きく左折して来る。公園部の暗渠路面は基本的に砂場
突然暗渠から巨大なコンクリートの固まりが地上に現れる
ほどなく、玉川上水路はなんと巨大な水道管となって井の頭線の線路上の橋を渡る
元々この区間は橋上の河川と言う特殊な形状だったが、現在は歩道を隣接した橋上の水道管、それはそれで特殊である
水道管は良く見ると下にもう1本存在する
橋を渡りきると水路は再び地下へと戻り、地上は公園となる
公園に建つ大きな水車のモニュメント.....ってか、な〜んか見覚えあるでしょ、コレ!
和泉給水所から京王線代田橋駅方面へ向かう旧水路に対し、新水路は真っすぐ淀橋浄水場へ向かう最短距離で進む。暗渠は最初は遊歩道化されており、現在代田橋駅近くの商店街"和泉名店街"の一部となっている部分もあるが、環状七号線へ向けてほぼ真っすぐに進んでいる。この間は地形にさほどの起伏が無く、周囲に小さな分水を分けながら民家の間を這うように流れる。このあたりには震災直後に既に家が建ち始めており、戦後間もない頃の航空写真でも確認することが出来る。そして、実際にこのあたりを歩くと当時と変わらぬ"昭和の風情"が満載の一角となっている。
2004年(平成16年)〜現在のオレの地元。クジラ型の遊具があることから、近所では"クジラ公園"と呼ばれることが多いようだ
玉川上水公園内唯一の橋である久右衛門橋モニュメント。このあたりは意図的に上水路時代の再現と言う造り。前方に井の頭通りが横切る
井の頭通りを目前にし、公園の端に水門が現れる。前方には和泉給水所の巨大なタンクが見える
どうやらこれは公園のためのモニュメントなどではなく、実際に使われていたものらしい。水路はここで井の頭通りを超える
和泉給水所前に建つ、井の頭通りならぬ"井の頭街道"の碑。宇田川の項で触れたが、元々単なる"水道道路"と呼ばれていたこの通りは、このあたりに暮らした昭和初期当時の総理、近衛文麿が1938年(昭和13年)に井の頭街道と命名した。しかしその後東京都により井の頭通りと改められたのである
また、当時井の頭通りと甲州街道が交わる現・松原交差点は水道横丁と呼ばれた。現在もバス停にその名が残る
新旧・玉川上水路の分岐点となる位置に和泉給水所がある
和泉給水所の敷地内には玉川上水公園水門の先に繋がるコンクリート製の水路跡が存在する。水門を潜った上水路は井の頭通りの下を通り、ここで新水路へと導かれる
和泉給水所の裏手から、玉川上水旧水路よりも北側に新たな水路が設けられた。それが玉川上水新水路である。現在その暗渠上は立ち入り禁止区域あり、砂場あり、遊具のある公園あり、と言う状況
もはや暗渠にはお約束の"遊び場"表示
暗渠上に釣り堀があったりなんかする。.....が、現在営業はしていない模様
暗渠は京王線代田橋駅から甲州街道を渡ったロケーションとなる和泉名店街へ。何故"沖縄タウン"なのかと言うと、元々このあたりには"沖縄学の父"伊波普猶氏を始め多くの沖縄出身の学者が居を構えており、沖縄料理の店なども多かったことから"街興しのテーマ"を沖縄に絞り、2005年(平成17年)に"沖縄タウン"としてリニューアルされた、と言うわけなのだ
.....そして、商店街を抜けると現れる、この完全に"昭和のまま"の街並みの中央を走る道が玉川上水新水路跡である。左右の建物は戦後間もない頃とそう変わってはいないのだろう。特に道1本入った裏路地は時が止まっていたかのような風情を持ち、レトロ・マニアの間では有名なポイントとなっているらしい
その先には広い環状七号線が横切り、玉川上水新水路は前方に広い自動車道となって進んで行く。まるで現代社会へ帰る"タイム・トンネルの出口"のようだ
環七を渡った新水路は谷底に高く土手を造り、その中央を流す形が採られ、ほぼ一直線となる。現在南側には都営住宅や小さな公園が続き、その裏側は谷のように低くなっている。一旦完全に破壊され、その後道路が造られて既に70年が経過している現在、水道道路に水路の遺構を探すのは難しい。が、その名を始め多くの"名称"がかつての姿を想像させる。笹塚〜初台間には多くの商店街が"十号通り"や"六号通り"の名で水路を横切っているが、これらは皆かつての水路に架かっていた橋の名に由来する。更に、この新玉川上水路は当時一般の民間人の侵入が禁止されていた為に橋が少なく、対岸に行くことが困難だった市民の為に水路下に隧道(トンネル)が掘られた。本村隧道と本町隧道のふたつが現存している。これが水道道路の新玉川上水路時代の数少ない遺構である。
環状七号線、泉南付近。写真奥が三軒茶屋方面、手前が高円寺方面。前方の陸橋が首都高速4号線、その下が甲州街道である。玉川上水新水路は写真中央の信号の真下を右から左へと進む。ここから左側が現在水道道路と呼ばれる通りとなる
何の変哲もない一般道と化した玉川上水新水路跡、水道道路。現在道路上にいる限り、ここが水路跡だと気付く人はいないかも知れない
が、道路脇に道一本入ればその痕跡を見ることが出来る
笹塚十号通り商店街に建つ玉川上水新水路跡の説明板。地元の人でも商店街や公園の名の由来を知らない人が多い.....ってか、かく言うオレもそのひとりだった
.....上から十三号通り公園、十号通り商店街、九号通り公園、六号坂通り商店街。全て玉川上水新水路に架けられていた橋の名に由来するが、当時は基本的に一般人の水路付近への立ち入りは禁止とされ、管理する人間が利用する為に造られた橋だった。とは言え、いくらなんでも淡白なネーミングだ
そしてこちらは代々幡村民のためのトンネル、本村隧道。写真右手に帝京短期大学とオレの3軒目の住まいがあった
こちらが200mほど先にある本町隧道。本村隧道に比べて近代的なのは補修によるもの
右手が六号商店街、左手は谷を下る六号坂商店街。左へ行って道一本入るとオレんちだった
現在中野通りとなる谷を通過し、南北に多くの小さな支水路を従えて旧玉川上水路の北側をほぼ平行して進んで来た新水路は、初台手前で旧水路同様緩やかに左にカーブする。環六(山手通り)を渡り、かつて角筈と呼ばれた地区を通過する。このあたりは元々十二社池のあった水の豊かな場所だが、現在はその地名にしか水の名残りは残されていない。十二社も角筈も"西新宿"となってしまったのだ。角筈には1987年(昭和62年)までガスタンクがあり、子供の頃「アレが爆発したらウチは吹っ飛ぶのよ」と親に言われ、想像すると絶望的に怖かったのを覚えている。
ハチ公バスが行く水道道路。玉川上水新水路は写真奥から手前に向けて一直線に進む
山手通りとの交差点。前方に新宿の超高層ビル郡が近づいて来る
初台付近のオペラ・シティ/新国立劇場を超えると辺りはもう新都心、西新宿。かつての角筈/淀橋/十二社と言った街は現在まとめて"西新宿"と呼ばれている。写真は水道道路脇にある、解体直前で無人の廃墟となった角筈アパートと給水塔。.....きっとここにも大きなビルが建つのだろう
写真右手に甲州街道(玉川上水旧水路)、と言うロケーションで行き止まりとなる新水路/水道道路。が、新水路は右折して旧水路へと合流するのではなく、真っすぐ1898年に造られた淀橋浄水場へと向かう
.....そして、新玉川上水路の最終目的地、淀橋浄水場に到着する。ここから江戸市民のために多くの水が齎された。現在西新宿と称されるこの地に淀橋浄水場が存在したのは1898年から1968年(昭和42年)まで。そして現在淀橋浄水場跡地は.....こうなっているのである。
淀橋浄水場全景。写真手前右下は新宿駅、右手奥へと伸びる道路は青梅街道、左手が甲州街道。.....ここがどこなのか解るだろう
現在の同じ場所の風景。.....そう、広大な敷地を誇った淀橋浄水場跡地は、新宿副都心化計画によって超高層ビル郡が建ち並び、1990年(平成2年)に東京都庁が完成し、遂には東京の新都心となったのである
約9万坪の広さを誇った東京の水瓶、淀橋浄水場は1965年(昭和40年)3月31日をもってその役目を終え、67年間の歴史に幕を降ろした。ちなみにかつてのこのあたりの呼び名は東京府南豊島郡淀橋町、1947年に四谷区/牛込区と合併し、新宿区となった。量販店として有名なヨドバシカメラはこの地が発祥である。そして東京の浄水場は1965年(昭和40年)に東村山浄水場へとその機能を引き継ぎ、新宿は日本の高度経済成長の柱とされ、"新宿副都心計画"へと向かう。
1965年(昭和40年)、廃止直前の淀橋浄水場
大正初期の淀橋浄水場内部。いくつもの巨大なプール郡、と言う印象である
新宿エルタワーの敷地内にひっそりと建つ淀橋浄水場跡の石碑。.....新宿を行き交う人々の目線は決して低くない。誰もが空を見上げ、その高さと量感に感嘆する。よってこの碑が人々の目に触れることも稀であろう。
現在でこそ多くの超高層ビルが建ち並ぶ西新宿/淀橋浄水場跡地に最初の超高層ビルが建ったのは1971年(昭和46年)、47階建て/地上169mの京王プラザホテルである。1960年(昭和35年)、江戸時代より千代田/中央/港の三区に都市機能が集中していたのを分散させるため、淀橋浄水場を閉鎖した後に企業に跡地を売却、新しいビジネス街を造ろうと言う計画が議決された。1971年(昭和46年)の京王プラザに続いて住友/KDD/三井ビルが1974(昭和49年)に建てられ、1990年(平成2年)には東京都庁がこの地に移転し、今や新宿は副都心ではなく新都心へと変貌した。また最も上流寄りの新宿中央公園は1968年(昭和43年)に造られており、この頃オレも父親に連れられて度々このあたりを訪れた。その時の印象は"四角い空き地の街"である。当時超高層ビル建設予定のスペースは浄水場時代そのままの区切り方で草野球のためのグラウンドとなっており、オレの目には巨大な四角い空き地の集合体としか映らなかったのである。
1971年(昭和46年)、まず京王プラザが完成した
立体交差工事の進む淀橋浄水場跡地。オレが子供の頃に見た風景は極めてコレに近く、殆どの"四角い空き地"で皆草野球をしていた。数十年後に現在のような風景となることなど、知りもしなければ考えもしなかった
現在の新宿新都心が、ビルごとに碁盤の目のように区画切りされ、道路が縦横に走っているのにはそう言う理由があったのだ
新宿。
この巨大都市にかつて広大な浄水場が存在していたことすら、既に人々の記憶から薄れ始めている。
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