第一章・ふるさとは宇田川
第一章・第五節〜宇田川源流へ〜/神泉支流、松濤公園からの流れ
下流に最も近い宇田川の支流は京王井の頭線神泉駅付近からの支流と、鍋島松濤公園の池からの流れである。が、どちらも地元の人以外にはほとんど馴染みのない場所ではないだろうか。オレは学区内なので小学校の同級生がたくさんいるが、おそらくどちらも渋谷駅から中途半端な距離のために"行ったことがない"と言う人が多いと思う。だが例えばO-east/west、club asiaあたりのlive houseへ行く際、乗った井の頭線が各駅停車だったら神泉で降りた方がよっぽど便利だったりする。神泉駅の位置を解りやすく言うと道玄坂の上の方、鍋島松濤公園はそこから徒歩で10分ほど、東急百貨店本店/文化村の裏を山手通りの方向へ進んだ位置にある。
京王井の頭線神泉駅。住宅街のド真ん中と言う立地条件に加え、始発駅である渋谷からひとつ目、と言う意味でもご存知の方はあまりいないのではないだろうか。また、この駅は写真左手の駅舎と右の高台のトンネルの間の谷底に位置するため、地上の空間に出るのがこの踏切の僅かな間だけなのである。そして、オレがこのあたりをウロついてた頃は、ホームが短いために電車がはみ出し、ドアが開かない車両があると言う珍しい状況だった
こちらが1962年(昭和37年)の神泉駅
神の泉と書く、この神泉と言う地名の由来は"この地にあった泉から汲んだ水で仙人が不老長寿の薬を作った"とされる伝説に基づく。また、難病にかかった付近の農民がその泉の水を利用した公衆浴場のおかげで直ったとか、とにかく"神"と言うレベルの泉の存在が語り継がれている。事実このあたりは渋谷に隣接する谷地形で、池や沼などの水源は豊富だった筈である。
明治中期、神泉一帯は"弘法大師が杖で突いたら水が湧いた"とされる弘法湯と言う公衆浴場を中心に栄え始める。付近の練兵場などからの集客を当て込み、浴場に隣接した料亭/旅館が次々と造られた。今で言うテーマパーク/レジャーホテルのようなものである。しかし渋谷が第二次世界大戦で焼け野原となると徐々に衰退し、末期は一般的な銭湯と化した弘法湯も昭和50年代には廃業、現在この一帯に隣接する円山町/道玄坂界隈が所謂"ラブホ街"なのには、そうした歴史があったのである。
1913年(大正2年)の弘法湯付近の賑わい。最盛期には400人の芸妓達がいた
京王井の頭線神泉駅前にある弘法湯跡。1976年(昭和51年)まで銭湯としてその名を残したが、現在は碑が建つのみ
初台や代々木大山、富ヶ谷や神山あたりから"谷底"渋谷へと流れて来た宇田川は終点近くでまさに"宇田川町"へと入る。宇田川町の西側は初台あたりと同じく相変わらず山手通りのある高台で、ここでもいくつかの細流とも言うべき小さな流れが合流しながら宇田川に注ぎ込んで来る。京王井の頭線神泉駅付近にある水源は江戸時代の地図に池として確認出来、流れも追うことが出来る。しかし現在その神泉町7番地あたりにはあまりにも建物が増えすぎ、正確な池の位置は確認出来ない。
高いビルの立ち並ぶ神泉町、7番地に唯一広いスペースである駐車場がある。付近の開発状況を考えると建物がないのが不思議な状況下。.....水源となる池があったのはここなのだろうか
水源付近からやや下った、京王井の頭線神泉駅前の小さなスペースが流路の暗渠になっている
線路の逆側から見たところ。この細流は井の頭線の線路を向こう側から渡って来ているのだ
そのまま直進すると、暗渠は円山町/ラブホ街を通過する。このあたりにも小学校の同級生がたくさんいて、ズバリ"自宅が連れ込み旅館"ってヤツもいた。が、それらは弘法湯全盛期からの歴史ある料亭や旅館が時代とともに変化した姿なのである。そしてその旅館の部屋で遊んでいたオレ達は.....純粋だったね
深い谷底を流れる宇田川神泉支流の脇には、玄関が谷の中腹、背面が谷底側と言う独特の造りの建物が建ち並ぶ
写真中央、LAWSONの右の小さな道が暗渠。緩やかな坂を下って来ると、出たのは東急百貨店本店/文化村裏の三叉路。流れは写真左手へと向かい、写真右手に見える案内板には鍋島松濤公園とある。実はここがもうひとつの流れとの合流地点となる
神泉谷からの流れは谷底近くのこの場所でもうひとつの流れを受ける。それが鍋島松濤公園からの流れである。
鍋島松濤公園は元々紀州徳川家下屋敷だった場所を佐賀藩主の鍋島家が買い、松濤園と言う茶屋を作ったことで有名な広大な敷地の一部にある小庭園で、昭和に入ってから東京都(当時東京市)に寄贈した公園である。園内は水車のある池を中心とした作りとなっており、現在も湧き水によってほぼそのままの姿を残す貴重な公園だ。
1947年(昭和22年)当時の宇田川下流、神泉支流と鍋島松濤公園の位置関係。宇田川本流がもっとも谷底となる
鍋島松濤公園。1933年(昭和8年)に鍋島家から東京市に寄贈、その後渋谷区の管理下となった
松濤公園の象徴である湧き水池。こんなオレでも小学生の時はザリガニ取ったりしたモンだ。現在も水鳥達や鯉、亀などが優雅に過ごす、都会のオアシス。ゴミも少なく、ご近所の方や区の職員達の存続努力の賜物である
松濤公園入り口。奥が湧き水池。写真でも解るように、公園奥は高台となり、丁度ここが谷底の窪地なのである
松濤公園と宇田川本流とを結ぶルート。実は松濤公園には笹塚で分水された玉川上水路の分水、三田用水が流れ込んでおり、湧き水と合わせてこの池から豊富な水流が宇田川へと注いでいたのである。そしてそこに、更に前述の神泉の池からの流れが合流するのである
神泉支流と合流した鍋島松濤公園と三田用水の流れは間もなく渋谷川との合流地点となる宇田川下流へと向かう
東急文化村裏の、この舗装道路が水路となる
東急百貨店本店前より渋谷駅方面を望む。写真右から来た神泉+松濤公園からの流れが、センター街方向へ流れる左手の宇田川本流と合流する
109(写真手前左)付近から正面の東急百貨店本店を望む。宇田川本流は写真右手
東急百貨店本店。写真右手奥から来た神泉・松濤支流が手前の宇田川本流へと向かう
この写真は1917年(大正6年)、現在東急本店の建つ場所にあった大向尋常小学校の朝礼風景。.....お気づきの方もいるかも知れないが、大向小学校(現神南小)はオレの母校である。が、場所は公園通りの上である。.....つまり、元々この地にあった大向小学校が、1967年(昭和42年)に東急本店の建設により現在の場所に引越した、と言うワケだ(オレの入学は昭和45年)。が、その用地買収劇は当時相当な議論を醸し出したらしい
ここが宇田川本流との合流地点。写真右手から来た本流に、中央奥から来た流れが注ぐ。ここには大向橋と言う名の橋があった。そう、写真奥に写る建物が旧大向小学校、現東急本店である
.....あとほんの150m程度で、宇田川は渋谷川へ注いで終わる。全長3km足らずのこの小さく短い川に、これほどまでの源流と、そしてこれほどまでの自分との接点があることに驚いた。JICA、初台橋、大山公園、NTT代々木ビル、桜橋、そして松濤公園。繰り返し言うが、オレは39年間渋谷に暮らし、そして一度も川を見たことがない。しかし今、オレはようやくその実態に触れつつある。きっとオリンピック・ベイビーのオレ達は、渋谷で最初の"都市型人間"なのだろう。だがそのどれもが自然にではなく、1964年(昭和39年)の国際的イベントに合わせ、一斉に、そして人工的に隠されたと言う事実。

全てが悪なのではない。オレ達は恵まれた時代に生き、そしてある意味"流行"を司っている。それらは全て戦後に日本が必死の想いで這い上がって来たと言う基盤の上に初めて成り立っている。国際化へ向けた先輩方の努力の結晶の上に、我々の豊かさはある。しかし.....だから、だからこそ、この地下に隠された川達への想いは募るばかりなのだ。

.....宇田川遊歩道は、結果的にオレの8歳までの行動範囲全てであった。オリンピックの名の元に暗渠化された宇田川は、オリンピック・ベイビーのオレには完全に隠されていたのである。
そして、オレが8歳になった1972年(昭和47年)、我が家は神山町の生家に別離を告げ、母と母方の祖母と共に、新たな居住地を求めてふるさと・宇田川暗渠を後にする。
向かった先は代々木5丁目である。

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