2008/11/15 up

10月某日@白根郷土博物館
ロケ8日目、10時に現地集合。
寝耳に水の"春の小川特別展"。数日後には渋谷川暗渠に入るという時に、トンデモナイタイミングでトンデモナイ企画が始まったもの。
「加瀬さん、あの写真って知ってました?」
「いや、知らない」
「そうですよね、そりゃそうだ。ウッシッシ」

白根記念渋谷区立郷土博物館・文学館
.....なんなんだ?。って言うか、K平さんもF村さんも、いやマネPも何か知ってるな?。
「.....まあ、既に取材申し込みがされてるから今日来たんだろうし、つまり、ここにはオレが喜ぶ何かがあって、んで皆で黙ってる、ってことね?」
「まあまあ。ちょっと挨拶だけして来るんで、待ってて下さいよ。あ、加瀬さんは絶対に来ちゃダメ」
.....嬉しそうだな、この人.....。
いつものように音声マイクを取り付け、白根郷土博物館手前から中へ入って行くアングルをスタッフと打ち合せ。過去に何度か訪れている白根郷土博物館、入り口には大きなポスターが貼られ、如何にも特別展らしい雰囲気。
「じゃ、行きましょう」
逆光で中が見えなかった白根郷土博物館の中へ、カメラは後方から、つまりオレを先頭に入って行く。
「あ.....」
そこには、見たことのない渋谷の風景が、まだ武蔵野の面影を残した渋谷が広がっていた。更に、暗渠工事真っ最中の渋谷川や、水のある旗洗池、そしてなんとウチ(生家)の隣の魚屋さんの脇にあった桜橋と、そこに注ぐ神山支流の姿。
.....しばし、言葉を忘れてアングリ。
「ようこそ」
オレの背後からモノ凄く絶妙なタイミングで現れたのは、この企画の発起人であり責任者である、白根郷土博物館学芸員のT原氏。
.....聞けば渋谷に生まれ育って39年(一緒!)、何故渋谷には暗渠河川が多いのかを疑問に思って調べ始め(またまた一緒!!)、更にweb上にあまりにも間違った認識の記述が多いのにショックを受け(耳痛っ!/苦笑)、数年がかりでこのイベントを準備されたんだそう。
.....そうか、今日の皆のニヤニヤは、T原さんだったのか.....。
カメラは回ってるし、S水氏は手で「どうぞどうぞ」と指示。オレは遠慮なくT原さんを取っ捕まえて質問攻め。
「コレって、ですよね」
「さすが、良くご存知で」
「ってことは、が〜〜?」
「あ、〜〜はですね.....」
凄い!。さすが!!。.....この2年間、質問されて答えることはあっても、オレが質問出来た相手なんて初めて!。年代/町名や番地/状況などを、何の資料もナシでツラツラと話すふたり.....周りはさぞかし冷ややかな眼で見ていたことだろう。何故なら、オレこの時完全にロケ中だってこと忘れてたし(爆)。

渋谷が生んだ川バカふたり(爆)
こりゃつまり、マネPからこのイベントのことを知ったS水氏が早速あたりをつけ、おそらくT原さんにオレと同じ匂いを感じ、ぶつけてみようと思った、ってことだろう。ソイツは案の定大正解、こんなに話の合う人、価値観の同じ人なんて滅多に出逢えるモンじゃない。彼も、オレが興味を持ったきっかけやこれまでの行動に、素直に共感してくれている。にしても、このイベントを行うまでの経緯を考えると、この人もとてつもない熱中人なのだろうと思う。
.....ちなみに彼はオレよりも南側の渋谷区立S楽小学校出身、5歳差だからオレが小6の時彼は小2、つまり32年前の国立競技場での渋谷区陸上競技大会(小学生全員参加)では同席してる、ってことだ(解りづれエ〜)。
彼との会話や資料から、オレの知らなかった様々なこと、知らなかった裏事情などがたくさん解った。そして、本当にいったいどうやって掻き集めたのかと感心する、河川暗渠化以前の渋谷の写真の数ったら.....マジで衝撃。
「良くこんなの隠してたな〜」
「いや〜、今回の隠し玉ですから(笑)」
コレ、逆に番組放送後に知ったらS水氏がキレてただろうな。いやはや間に合って良かった。マネPお手柄。
我々の撮影中にも、多くの方がこの春の小川特別展を観に訪れる。印象的だったのは、それが皆年配の方ばかりだったこと。当然かも知れない。彼等の目的は、子供の頃の懐かしい風景や資料を眼にし、思い出話の種にすることだから。
が、ここで激論を闘わせている主催者とTV出演者、お互いに実際には見たことのない世代、でも何故かやたら詳しく、細かい番地や年代まで口にする、という異様な光景。

この特別展が初公開となった、大正時代の河骨川の写真
さぞかし気味悪がられたことだろうな。

.....にしても、今回の目玉というか、メインで使われている河骨川の、大正末期の写真。on airでも使われたこの写真、マジでこの特別展が初出。長閑な田園風景の中にS字を描いて流れる、本当に小さな小さな流れ。高野辰之先生が愛した、代々木山谷を流れる"春の小川"の姿。

S水氏の眼が子供のように(爆)
「加瀬さん、コレどの辺かって解ります?」
「.....う〜ん、なんか高い所から撮ってるみたいだな。こっち側が高台で、こういうカーブか.....なんとなくこの辺かな?という予想は出来なくはないけど.....でも、あまりにも今と景色が違い過ぎてちょっと難しいかも.....」
「ダメ元でもかまいません。今から探しに行きましょうよ、春の小川を!」
.....S水氏の眼が子供のように輝いていた。
午後、T原さんに「放送、楽しみにしてますよ」と送り出され、ロケ車を飛ばして河骨川暗渠へ。
「とりあえず、予想している場所へ向かいます」
代々木公園駐車場へ車を止め、丁度春の小川記念碑のあたりから上流方向へ。
この写真の大正時代だとまだ小田急線が走っていないので、目印になるものがない。それに、周りは田園風景なのに、この写真は一段高い所から撮られている。まさか、木に登って撮ったんでもないだろうし、どんな地形だったのか、が解らない。橋の跡(新潮橋)が踏切前の地面に埋まってるくらいだから、そんなにこんもりした山があるとは思えないし、写真を見る限り、左側が高台でかなり接近しているが河骨川そのものは平地を流れており、そう上流部ではない筈。で、写真下に向かって緩やかに下っているような.....。
様々な想像をしながら、黙々と歩く。多分いつもより早足。クルーも黙ってオレについて来る。今日も、時折通る小田急線が線路をゴトゴトと揺らす音だけが響いている。今歩いているのは、この小田急線沿いに人間の手で真っすぐにされた暗渠上なのであって、この写真の通りの場所なんて見つからないのではないか.....。
次の瞬間、足が止まった。
.....いったい、ここへ何度来たか解らない。いや、厳密に言えばかつて8歳から28歳までの20年暮らしていたのだから、何百回と歩いた道。ただ、そこが春の小川の舞台であり、それがほんの数十年前の風景を歌ったものだと知り、訪ねるようになってからはまだ数十回だろう。
そして、春の小川記念碑の斜め前方、小田急線線路を挟んだ高台側に住んでいたオレは、例えば宇田川の生家跡から河骨川へ向かう時は上流へ向けて、そして初めから河骨川へ向かう時は逆に新宿方面から下流へと歩いていた。更に、当時代々木八幡駅を使用していたオレは、記念碑先の新潮橋から下流に向けての風景は見慣れていたが、反対方向へ歩いたことは殆どなかった。

写真と同じアングルを探す
.....ここだ。
そこは小田急線が開通(昭和2年)し、人工流路となった後、昭和25年に参宮橋4号踏切の手前に架けられた、北星橋の手前。河骨川暗渠が、水源地から西へ流れた後に小田急線を超え、一般道に飲み込まれた後に生活道路暗渠としてスタートする場所。この上流は坂であり、すぐ左手に緩やかな初台台地が迫る。
暗渠沿いの右手、つまり左岸の壁をよじ登る。このあたりは一段高い所に住宅があり、上から見ると河骨川暗渠道はその先から緩やかに下りながらオレの足元へ続いている。ここを訪ねる際、参宮橋駅から代々木八幡駅方面、つまり上流から下流へ向かって歩くと逆アングルになる。
ここに違いない。
ただ、オレはここを、上流側からのアングルでしか記憶していなかったのだ。

.....このロケ中、何度も試みては上手く行かなかった"かつての写真を持って現地を探し、訪ねる"というアイデア。結局on airで使用されることはなかったが、S水氏は今日オレがここを見つけると確信していて「行こう」と言ったのだろうか?。それとも、偶然なのだろうか?。
自転車でゆっくりと通りかかった、70歳はゆうに越えていそうな男性が、撮影中のオレ達に遠慮して止まっている。
「あの.....」
オレは暗渠道へ飛び降り、その写真を彼に見せた。
「これ、何処だか解りますか」
「.....ああ、懐かしいね。このあたりですよ」
彼は写真を指差し、上流の方を振り返り、頷いた。
「昔はね、田んぼばっかりでね。それが、オリンピックでね。みんなツブしちゃったんだね」
「.....川で遊んだり、しました?」
「いやあ、もうね、アタシらが子供の頃はけっこう汚れちゃってたからね。家も建ち始めて、ゴミとかがねえ」
.....こうして誰かの小さな記憶が、オレにとって重く切ない証言となって行く。その先に、今の姿があるのだから。
「加瀬さん、好きにしてて下さい。勝手に撮ってますから」
S水氏は気を使ってくれたのか、それともディレクターとして判断したのか。オレはサングラスの奥の涙を撮られるのが嫌で、少し上流の方まで行った。
「は〜るのおがわはサラサラ流る〜♪」
虚しくなるのは解ってて、でも皆に聞こえないように歌った。
今オレは、春の小川にいるのだから。

もう建物はないけれど、8歳〜28歳まで暮らした場所
「さて、そう言えば前に来た時、加瀬さんの2軒目のお宅に行きませんでしたね。連れてって下さいよ」
北星橋/小田急線の踏切を渡り、今は"大使館通り"などという大層な名前で呼ばれている道を辿って歩く。オレが20年住んだ借家はとうにないが、隣がブルガリア大使館で、この辺りはそれこそ川の流れのように道がくねっている。
「なんか、ここも暗渠みたいですよね」
「ハハ。まさか」
当時は暗渠道が見えていた(今は新しいマンションが建って見えなくなった)高台から記念碑前へ戻り、前回と同じカフェでお疲れさま&次回打ち合せ。
いよいよ残すは、数日後に控えた番組エンディングの"渋谷川暗渠潜入"のみ。
ライト、バッテリー、装備.....想像を超えた世界へ、それこそロケハンもなしに入るのだからどうするのがベストなのか解らない。過去に入った人はもちろんいるが、果たしてどの程度の準備が必要なのか。
「あ、渋谷川なら、オレ入ったことありますよ」
.....ハイ?、F村さん、今なんて??
「何年か前に撮影で入ったんで、ちょっと解りますよ」
.....S水さ〜ん、こんなに身近に経験者がいるなんて、チェック甘いじゃ〜ん!
「早く言えよ!」
「S水さんが聞かないから.....」
ともあれ、経験者がいるといないじゃ大違い。気になる点をいくつか質問。
例えば、匂い。
「まあ、そりゃ臭いですよ。ちょっとそのままの服じゃ電車には乗れないっすね」
それから、視界。
「もう真っ暗だから、バッテリー・ライト持ってかないと」
水って、深い?
「いや、その時は足首くらい、多分普通の長靴で丁度いい筈ですよ」
.....なんか、いる?
「どうだったかなあ.....ま、ああいう場所なんで、いるにはいると思いますけど」
.....なんとなく、長靴履いてマスクして、あとで風呂に入る必要がある、ってことは解った。突入ポイントは稲荷橋、一番近い銭湯は.....並木橋にあったっけ(ここで役立つとは思わなかった知識)。
では、長靴をスタッフ分購入して行こう、ということに決定。フロはオレが探しときます。
.....帰宅後、あらためて渋谷川暗渠をweb検索。おお、no river, no life開設の際にお世話になった大先輩、"世田谷の川探検隊"のwebマス、庵魚堂さんが渋谷川に入ってんじゃん!。やっぱりTV番組で、ブログに写真が載ってる。写真集"Underground"は人が写ってないから解らなかったけど、意外に広いな.....。水は少ないけど、足元が見えないと怖いな.....。
.....とりあえず、心配なのは雨。この夏、悲しい事故が起きている。オレも子供じゃない、危険を感じたら率先して決断し、スタッフの安全も守らなくてはならない。
興味本位の中途半端な気持ちで、渋谷川暗渠に入るつもりはない。
.....渋谷に蓋をされた川達があることを知って2年。
怒りとも悲しみとも吐かぬ未経験の気持ちと闘い、告発に近い形でno river, no lifeを開設、自らの行動範囲内にこんなにも"犠牲者達"がいることに驚き、そして想いは大きくなって行った。オレの生まれた家、28歳まで過ごした場所、そして幼稚園や学校までもが、春の小川と呼ばれた武蔵野の自然が織りなす奇蹟の風景の中にあったこと。そしてたった96年間で、オレ達は忘れてしまおうとしていること。
その"隠された歴史"に、オレは今足を踏み入れようとしているんだ。
愛する春の小川へ。
今行くよ!。

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