第七章・"渋谷・朝霧ヶ瀧伝説"
第七章・第五節/西郷山と代官山
鴬谷から鉢山〜猿楽と登って行くと、眼の前に旧山手通りが立ちはだかる。渋谷の中でもひと際"山手感"満載のこの一帯は単独町集合地域の最西端、南平台である。南の平たい台地.....この"南"は神泉町から見た方角らしい。基本的に大金持ちの住んでる超高級住宅街であり、オレの同級生にも何人かいる。中でも良く遊んでたN尾ってヤツの家は庭でサバイバル・ゲームが出来るくらい(!)の規模。ちなみに誰でも知ってる某・大発明商品の生みの親の御家である(謎)。
渋谷区南平台町。コンビニや自販機の類いは一切ナシ。つまり高級住宅街(.....)
決して大きくはない南の"平台"は、桜丘/鉢山同様、眼下に鴬谷を望む位置
住宅街を抜けると旧山手通り。右手は南、つまり神泉、神山町方面
左手は代官山方面。また、写真右側の歩道付近がかつての三田用水流路跡である
旧山手通りの外側は目黒区青葉台。そう、旧山手通り沿いの三田用水は渋谷と目黒の区界でもある。青葉台から目黒側を見ると南平台/青葉台が如何に高い位置だったのかが解る
旧山手通りと平行する1本の細い道。実はここに三田用水が通っていた。正面に大きな木々が群れる
辿り着いたのは"西郷山公園"という緑地公園である
渋谷区と旧山手通り1本を隔てた目黒区青葉台。ここにある西郷山公園と隣接する菅刈公園は薩摩藩/明治維新の西郷隆盛の弟、西郷従道(じゅうどう)の屋敷のあった通称"西郷山"を整備した公園である。元々は豊後岡城主中川家の屋敷だったところで、本来は兄・隆盛のために従道が購入した屋敷だった。それが1877年(明治10年)の高盛の死によって従道のものとなり、1941年(昭和16年)に某・大手不動産が所有者となると宅地分譲され、その後目黒区が景観整備に務めて1981年(昭和56年)に西郷山公園となり、現在に至る。取材時には水は流れていなかったが、園内には落差20mの人工の滝がある。
西郷従道(1843〜1902)。元海軍大将であり、兄・高盛と共に薩摩藩の武士としても知られる
山下/谷底側から見た西郷山公園の入口。鬱蒼と木々が生い茂り、園内が後方へ傾斜して行くのが解る
園内に残る空堀の池
かつてこの位置にあった西郷邸。池は三田用水からの取水を流用したもので、付近の景観は見事なものだったという
西郷邸は1960年(昭和35年)に愛知県犬山市の明治村に移されており、現在も保存されている
"西郷伯爵邸庭園"と名付けられたスケッチ。その優雅さが手に取るように解る
園内は入口を入ってすぐの池/西郷邸跡以外はほぼ山形状となり、来園者は"登山"を行うことになる
流水時の人工滝。落差20mは実際に眼にすると相当なものだろう
西郷山の山頂。ここが山手通り沿いの高さとなる
園内に残る空堀流路。山頂の三田用水から眼下の池へと水を引いた跡だろうか
西郷山山頂部から目黒区青葉台方向を望む.....渋谷と目黒の境界とは思えない、素晴らしい景観がそこにある
渋谷町誌に掲載されている1922年(大正11年)の西郷山の姿。谷底を流れるのは三田用水の分水なのか
西郷山の隣/旧山手通り沿いに架かる西郷橋
西郷山公園を右手に見て更に旧山手通りを進むと、眼下に交差する道を渡る"西郷橋"と出逢う。が、この橋は元々眼下の道を渡るための橋でも、旧山手通りの陸橋の名でもない。西郷橋は、ここを三田用水が渡るための水道橋だったのである。三田用水は1974年(昭和49年)に廃止されたが、何故とうに宅地化の進んだ渋谷でそんなに近代まで残っていたのかと言うと、農業のみならずビール工場にも水を供給していたから、というのは既に皆さんご存知のハナシかも知れない。
左は1962年(昭和37年)の西郷橋からの眺め、右が現在。高低差の印象が同じなせいか、決して激変というイメージは持たない。むしろ既に現在の姿に近く、最も大きな違いは三田用水の有無なのかも知れない
三田用水・鉢山分水は、この西郷橋付近から取水されていたという。美しい木々が立ち並び、そこを健気に流れた小さな流れは途中多くの水車を回し、渋谷の人々の生活を潤わせた
旧山手通りを更に進む
交差点には"槍ヶ崎"の表記
槍ヶ崎という名は槍のように尖った丘陵地形から来ており、目黒川の谷へ向けて深い谷地を形成している。そして、つい最近までここには三田用水の水路が健在だった。しかもそれは道端ではなく、この槍ケ崎の尾根の空中を通っていた。
1962年(昭和37年)の槍ヶ崎交差点。写真右手から左手へと架けられた三田用水の空中水路
左は1955年(昭和30年)、三田用水は現役で稼働中。右が現在の同一アングルである。路面電車のパンタグラフが通る電線の位置が高さギリギリに見え、当時から問題視されていたことが想像出来る
昭和末期の取り壊し寸前、"高架鉄樋"となった空中水路の貴重なショット
槍ヶ崎付近は、その地形により現在も崖線さながらの景観を残す
かつてのオレの地元に近い笹塚で分水された三田用水。その流路はこうして山手通り沿いを流れ、渋谷区と目黒区の境界線ともなり、渋谷区松濤から槍ヶ崎付近にかけて、山手通り内側が渋谷区/外側が目黒区となった。文字通り山手/高台に位置するこの付近は渋谷の中でも代表的な高級住宅街であり、同時に高級ブランドが軒を連ねるファッション・ストリートでもある。名前からして高尚な街、代官山だ。
1963年(昭和38年)の航空写真に見る代官山。中央が東急東横線・代官山駅、左下が槍ヶ崎交差点。オレが生まれる1年前だが、既に高級住宅地として発展していた
恐らく今回取り上げている町名の中では最もメジャーと思われるこの"代官山"という地名の由来は、使用されなくなった薪山を奉行が引き継ぎ、三名の代官がこの地を管理したことによる。となれば当然江戸時代以前の困頁山の存在とも関わって来るかも知れない。渋谷南部の地形を考えた際、このあたりに多く見られる小さな山々はどれも怪しい存在なのだ。
旧山手通り沿いにある代官山名物のイタリアン・カフェ"カフェ・ミケランジェロ"
代官山駅周辺
東急東横線・代官山駅は渋谷の次、各駅停車のみ発着の小さな駅。東横線の地下化計画も伴い、現在駅全体が工事中
渋谷駅方面。緩やかに谷底へとカーブして行く
現在代官山のメイン・ランドマークと言えるのは地上36階、店舗/スポーツ・プラザなどを備えた巨大な集合住宅、'00年完成の"代官山アドレス"である。渋谷の高台に建つこのビルは周囲を圧倒し、代官山の"高級住宅街"のイメージをより強固なものとしている。
高さ119.9mを誇る代官山アドレス。敷地内に様々な彫刻家によるモニュメントも持つ
この巨大な代官山アドレスが出来る以前、ここにはやはり集合住宅があった。関東大震災を機に鉄筋コンクリート製の集合住宅を広めた財団法人、同潤会による36棟の同潤会・代官山アパートである。近年、表参道の青山アパートが表参道ヒルズとなったのはご存知と思うが、戦後の日本の集合住宅の基礎ともなったこの同潤会アパートは全16箇所の内、既に上野下アパートただひとつを残すのみとなり、間もなくその歴史に終止符が打たれようとしている。
モダンな造りと空間を併せ持つ、同潤会独特の雰囲気を持つ当時の代官山アパート敷地内。ここには同潤会アパート以前に青山女学院(現・青山学院女子短大)があり、広大な敷地が有効活用された
ありし日の同潤会・代官山アパート。1927年(昭和2年)に完成、取り壊しは1996年(平成8年)。この写真は既に取り壊しが決まったあとでもあり、会話する人達の寂しさが伝わって来るようでもある
1955年(昭和30年)の同潤会・代官山アパートの姿。そのモダンな造りが人々の憧れとなったのだろう
高級住宅街としての宅地化と近代化、ファッション・ランドマークとしての発展。そこにトドメを差す代官山アドレスの存在.....が、この現代都市住宅街の真ん中に、何故かひっそりと小河川の"証拠"が今も残っている。
代官山アドレスを背後に現れる古い橋の遺構
その名は"新坂橋"。東急東横線の踏切手前の坂の途中に埋もれている
東急東横線の線路に併走するような位置にある流路跡は立ち入り禁止となっているが、その様子から明らかに水路の存在が解る
新坂橋は三田用水・猿楽分水路跡に残る橋跡。周囲を再開発の波が直撃し、目前に代官山アドレスを望む位置に、本当にひっそりと残されている。土地の所有者、東急電鉄の計画、あらゆる要素の中で現在までその姿を留めているのは奇蹟と言っても過言ではないだろう。が、東急東横線の地下化が行われる2012年(平成24年)に、果たしてこの遺構が健在かは解らない。
東急東横線の進路を右に、住宅の中に紛れた流路を辿って下ってみる
道の片隅に祀られた代官山弁財天
このあたりも未だ再開発の波の中である
東急東横線とハチ公バスが交わる
流路は完全に建物と道路に飲み込まれて確認出来ないが、傾斜に沿って坂を下り切ると、JR山手線/埼京線の線路に順路を塞がれる。が、文献によれば稼働後期の三田用水・猿楽分水は一旦線路沿いに恵比寿方面へと進む。
写真左手から流れて来た猿楽分水はJR線の線路にぶつかり、恵比寿方面へと右折する
正面の低い壁は当時の護岸と考えられなくもない
お約束の駐輪スペース.....道路利用のひとつの形として、下に流路跡がある証しとも言える
やがてJR線のガードへ
渋谷区内の山手線ガードとしては相当に古い、煉瓦作りのガード
ガードを潜るとすぐ脇には"東三丁目遊び場".....小さな線路脇の公園、そしてこの名称。ここに水門があったのか、水車があったのか.....
流路はJR線を離れてビル街の中へと進む
唐突に現れたのは渋谷川である
欄干には"比丘橋(びくはし)"の名が刻まれている
比丘橋から今来た道を振り返ると、しっかりと大きな合流口があった
1963年(昭和38年)のGHQ撮影による航空写真に見る三田用水・猿楽口水路。実際にはオレが辿ったのは猿楽口水路の"ひとつ"でしかなく、多くの水田を潤して渋谷川に合流していた。しかし現在その痕跡は代官山駅付近の新坂橋のみ、他の部分に関しては全くわからなくなっている
渋谷川・比丘橋。三田用水・猿楽分水のゴールである。そう言えば数年前、近隣でのliveの際にカメラマンの提案で撮影に連れて来られたのがこの場所だった。その時は橋の名はおろか、その水路の名前すら知らなかった。最近川を辿るようになり、ようやくそこが撮影場所だったことに気づいたオレは、今回更にそこが三田用水・猿楽分水のゴールでもあることをようやく知った。
21世紀初頭にオレがやってたバンドのwebsiteのトップ・ページ。当然ながらその橋が比丘橋という名であることも、その下を流れるコンクリ水路が渋谷川という川であることも知らなかった、でも渋谷区民だった時代。今こうして同じ場所に立ってみて、目に映る景色も重みも全く違うのに驚く
西郷山、そして代官山。山手通りを境に渋谷と目黒を隔てる三田用水の存在と、それに伴う山地形と小河川。.....高低差20mの滝もあったし、古代人の暮らしの証しもあった。が、まだ朝霧と撫子には一向に近づかない気がする。渋谷の変貌は土地形状の緩やかな変化と極端な文化のスピードが折り合わず、ますますその歴史を紐解くことが困難になっているのだろう.....。
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