第五章・桃園川complete
第五章・第五節/天保新堀用水・検証編

前節で御覧頂いた通り、天保新堀用水は1841年(天保12年)、荻窪3丁目の善福寺川から阿佐谷南1丁目の桃園川まで、約2.5kmに渡って作られた人工水路である。が、前述のように両者の間には青梅街道が通る武蔵野台地の高台があり、その高低差は約2.5m。"一山越える"以外に、善福寺川から桃園川へ水を引く方法はない。では、どうやって越えるか。馬橋/高円寺/中野の三ケ村の名主達は胎内掘り(地下トンネル水路)を計画。度重なる協議の結果、善福寺川の西田端橋付近の広場から一旦矢倉山を迂回し、途中の成宗弁天池まで"地下トンネル"を掘り、更にそこから青梅街道北側へ向かう尾根をまたも地下トンネルで進み、流路が桃園川の谷へ向けて下りとなったところで地上の用水路とする、という驚くべき図式となった。

水不足に喘いだ三か村を救った善福寺川。.....が、ここから"ひと山越えて桃園川の谷まで胎内掘りで水を引く"という突拍子もない案を考え、実行してしまう発想と技術力に感服する
.....地下トンネル。
ひとことで言えば簡単そうなことだが、実際この時代の日本に於いて用水路を暗渠でなく初めから地下に作る、というのは前代未聞なことである。だが、彼等の前には決して目を覆うような山脈があるわけではなく、かろうじて真っすぐな水路を作ることが可能なギリギリの高さの台地があるだけ。高低差2.5mの台地を貫くために必要なトンネルの深さは約4m。深刻な水不足に喘ぐ彼等にとって、この無謀だが画期的なアイデアが唯一現実的な解決法だったのである。
馬橋/高円寺/中野の代表者は幕府に対し、この工事の許可及び補助金を願い入れた。代官・中村八太夫はこれを聞き入れ、農村保全対策の名目で270両(現代の数千万円にあたる)の工事補助金を出した。天保11年(1840年)、工事請負人に馬橋村の大谷助次郎、設計/監督に"水大工"川嶋銀蔵が選ばれ、この前代未聞の大工事の責任を負うこととなったのである。
1880年(明治13年)に成宗弁天社内に建てられた三ケ村用水記念碑。馬橋/高円寺/中野の名主達に加え、川嶋銀蔵や中村代官の名も刻まれている
元より地下トンネル式だったこの新堀用水路を、約170年後の現代に辿ることは極めて難しい。千川上水・六ケ村分水もそうだったが、何よりも"青梅街道"という、道路幅が広く且つ多数の改修や周辺地域の宅地/近代化を経た大街道を跨ぐ、という時点で確実に遺構は消滅してしまっている(今思えば六ケ村分水が天沼弁天池方面へ向かう暗渠が現存するのは奇蹟に近い)。
カワウソと大雨にやられ、流路変更/工事のやり直しを余儀なくされた天保新堀用水路。
中継地点である成宗弁天池以降は同じルートだが、護岸/流路変更こそされたものの現在も矢倉台地を削るように流れる善福寺川を中心とし、銀蔵の作った新堀用水のルートを確かめて行くことにする。

.....あ、ここは時代劇じゃナイからね(笑)。
善福寺川、田端村(現・荻窪3丁目)に現在も架かる大谷戸橋
現在解体作業の進む荻窪団地。きっと写真奥に見える棟の解体も時間の問題なのだろう

1947年(昭和22年)GHQによる"ひろまち"付近の航空写真。ひろまちの名に恥じぬ、広大な田園地帯である。左上から流れる善福寺川はカーブを描きながら下方へと進み、同規模の大きな用水路が真ん中下方向へと流れる。写真中央から上へ延びる水路を含め、多くの用水路が田端村を潤わせたことが解る
現在"ひろまち"にあるのは広大な敷地に広がる"公団荻窪団地"である。
日本住宅公団により1950年代に建てられた大型共同住宅として東京西部の人口増加に対応したが、既に建設から50年以上が経過、建物の老朽化と道路基盤の補修を理由に、2007年(平成19年)より"荻窪三丁目地区地区計画"として棟の解体〜立て直しの作業が始まった。
今ここは、昭和との決別を告げる真っ最中なのだ。
左の写真は大谷戸橋から延びる遊歩道、天神橋公園。右は同じ場所の1962年(昭和37年)
天神橋公園は大谷戸橋付近で善福寺川に突き当たる形で終わっている。つまりここが取水口ということ
左は1924年(大正13年)の善福寺川の姿、右が現在。田端村/成宗村を潤わす命の流れである。これなら確かにカワウソの巣も多数存在しただろう
左は1954年(昭和29年)の"ひろまち"下流/西田端橋の姿、右は現在の同一アングル。善福寺川の流路自体はそのままだが、川は護岸工事され、周囲の景色は一変した
付近は善福寺川緑地として整備され、流路に沿って両岸に緑の公園が広がる
善福寺川沿いには、今も所々現役の農園が存在する。豊かな水量を誇る善福寺川流域ならではの光景である
善福寺川緑地から矢倉台地を望む。当然天保時代当時は崖線のように聳え立っていた
矢倉台地の名を今に残す屋倉橋
矢倉台地から善福寺川を見下ろすように建つ田端神社
右手に矢倉台地、左手が善福寺川。後年別の用水路として掘削された暗渠が現在も残る
善福寺川沿いのかつての広大な水田跡に建つ都立杉並高校
高校を迂回する形の一般道に出ると、片車線分のみ舗装が古く、マンホールも同様に旧型
辿り着く先は新堀用水中継地点、成宗弁財天社である
結果的に大雨とカワウソにやられてしまった天保11年ルート。ポイントとなるのはやはり矢倉台地の存在で、くねった山沿いの流路は明らかにカワウソの巣窟となりやすく、且つ土砂災害の危険も多かった筈である。
翌12年のルートは当初難色を示していた田端村の了解を得て、ひろまちから矢倉山を迂回せずに真っすぐ成宗弁天池を目指すルートである。
現在は荻窪団地敷地内のド真ん中を進む天保12年ルート
右手が荻窪団地、左側は近年出来たばかりのマンション。まさに道1本隔てて昭和と平成が同居する景観である。新堀用水天保12年ルートはこの右手から左手へと進む
このあたりからやや勾配のある住宅街となり、銀蔵の掘った3つめのトンネルが地下に眠る
成田東となったこの付近だが、住居表示変更後の現在も"成宗"の名を多く見ることが出来る
辿り着く先は天保11年ルートと同様、成宗弁天池跡地
成宗弁天池のあった成宗弁財天は現・成田東の須賀神社脇に、小さいながらも残されている。新堀用水のために広げられた弁天池は50m×25mの広さを誇ったが、戦後に埋め立てられ、後に平坦化されて現在は大きなマンションが建っている。
この位置から青梅街道方面を見上げると如何にこの計画が壮大なものだったかを体感出来るが、同時に寸分の狂いもなく掘り進めた川嶋銀蔵の計算力と技術力にただただ驚嘆するしかない。
また、この付近には多くの用水路跡が現存し、弁天池を巡る灌漑事情も見ることが出来る。

1963年(昭和38年)の航空写真による須賀神社と成宗弁天池の姿。すぐ下に杉並高校が見える。右下には"阿佐ヶ谷住宅"が迫り、宅地化によりその存在が風前の灯であることが解る
荻窪団地と並び、この付近の戦後の宅地化を象徴する公団"阿佐ヶ谷住宅"(成田東)。1958年(昭和33年)製の分譲型テラスハウス式住宅で、荻窪団地同様、老朽化により既に立て替えが始まっている
成宗弁天社敷地内に石碑と共に残る、新堀用水時代の石橋跡。写真奥のマンションが建つ位置が広大な弁天池跡地であり、昭和中期頃まではその流れや胎内掘りの様子を見ることも出来たという
成宗弁天社と隣接する須賀神社
新堀用水最大の山場、青梅街道を越える胎内掘りは現在でいう"シールド工法"である。が、500分の1という緩やかな勾配を保ちながら、鍬や鋤などの手作業で地下4.5mを掘り進む、というのは並大抵ではない。途中幾つかの"空気穴"が設けられていたが、中の作業員が快適に過ごせる環境とは程遠い。設計/施工から作業まで、指揮を執った川嶋銀蔵の決意と努力に脱帽するしかない。
成宗弁天池から青梅街道越えの胎内掘りがスタートする付近。宅地化で体感することは難しくなっているが、勾配はかなりのもの



.....そして杉並区役所のあるこの地の地下には、今も銀蔵の造った胎内掘り、天保新堀用水が眠っている。
この写真は、現・成田西(当時・成宗村)の宅地造成の際に発見された、まごうことなき天保新堀用水の胎内掘りの姿である。発掘時の調査によれば地下4.5m(2間半)、高さ1.3m(4尺5寸)、幅1.6m(5尺3寸)、そして勾配は500分の1だった、とのこと。
.....これは前節で記した、天保新堀用水路設計時点の数値とピタリ一致するのだ。
重機もなく、ただ手作業で穴を掘り進め、いったいどうしてこのように完璧なものが造れたというのだろうか?。信念?、勘?、どれも正解かも知れない。
が、最も重要だったのは全てを仕切った川嶋銀蔵という男が、極めて優秀な水盛り大工だった、ということだ。このような前例のない偉業を達成出来る人物、例えるのならその150年前に羽村〜四谷まで玉川上水路を掘った玉川兄弟に匹敵するほど優れた人材を、馬橋村が有していたことがこの天保新堀用水を成功に導いたのである。

1947年(昭和22年)、GHQの空撮による天保新堀用水・石橋用水路部分(黄色線部分)。既に暗渠化されているため解りづらいが、青梅街道から桃園川の谷を蛇行しながら進んでいる
1964年(昭和39年)当時の杉並区役所と青梅街道。写真左手から右手へ、貫くように胎内掘りが作られた
こちらは激しく車の行き交う現在。右手のバスの前方にマンホールが不可解な並び方をしている。資料と照らし合わせると、丁度この真下あたりが胎内掘りなのだが.....
青梅街道を越えた地下トンネルは杉並区役所前を通過し、現在の阿佐ヶ谷パールセンター(商店街)途中にある石橋用水路跡の位置で地上に顔を出す。数年前まではここに銭湯があり、その敷地内に弁天池があったとのことだが、現在はコインランドリーが建つのみである。そしてここから桃園川まで、通称"石橋用水路"と呼ばれた用水路が谷筋を下り、桃園川へと注いでいたのである。この区間のみ暗渠化され、"馬橋児童遊園"として現在もそのルートを辿ることが出来る。
「まあまあ.....ところで、この地下に何があるか知ってる?」.....杉並区役所敷地内にあるカップルの銅像、丁度この真下あたりに銀蔵の胎内掘りが埋まっている筈なのだ
青梅街道とJR阿佐ヶ谷駅を結ぶショッピング・アーケード、阿佐ヶ谷パールセンター。この辺りではまだ胎内掘りが続く
ここが胎内掘りで進んで来た天保新堀用水路が地上へと顔を出し、桃園川へと注ぐ石橋用水路となるポイント。ここからの流路はほぼ遊歩道整備されている
石橋用水路跡は現在"馬橋児童遊園"となり、神田川笹塚支流や宇田川同様、住宅に挟まれた暗渠遊歩道となった
1964年(昭和39年)に遊歩道(児童遊園)化されて44年、おそらく遊歩道化された当時からあったであろう砂場は既に消えている
途中、阿佐ヶ谷にしはら公園脇は一般道となる
路面は典型的な昭和中期の暗渠処理
桃園川の谷まで降りて来た位置に建つ弁天湯
弁天湯付近には例の"遊び場"表示のあるスペースが。.....そう、この付近にはかつて弁天池が存在したという。宅地化で地形に変化が生じているので確たることは言えないが、現存の条件を満たす場所はここしかありえない
ふと気付くと、流路沿いに電線の鉄塔が並んでいることに気付く
杉並暗渠道の象徴、金太郎の車止め
写真奥から辿り着いた先は桃園川・東橋である。ここが長き天保新堀用水路のゴール地点
東橋には見覚えのあるオブジェが.....
.....そう、ここに建つのは魚を抱いて満足そうなカワウソのオブジェ。.....これは、カワウソに泣かされ、大改修を施す運命となった天保新堀用水へのオマージュなのだろうか
.....そして、新堀用水路が東橋で桃園川に合流したあと、逆の北側の延長線上に、小さな暗渠がまだ続いている。決して新堀用水が桃園川を突っ切り、反対側へ向かっていたというわけではない。年代は不明だが、全く同じ位置に向けて北側から注ぐ流れがあった、という事実だけである。
そしてその流れを追って行くことで、またしても不思議な縁を知ることとなる。
写真奥を左右に横切るのが桃園川、新堀用水は写真奥から来て桃園川へと合流し、その延長線上には忽然と橋跡が現れる
その先へと続く、新堀用水路の半分にも満たない幅の小さな流路跡
流路はJRの高架を潜る
路面は石蓋式となる
.....延長線上にあるのは、我がdragonlionのすぐ裏手にある小さな小さな用水路跡だった
.....2008年にNHK"熱中時間"に出演した際、我がdragonlionのあるビルの裏から始まる暗渠を辿り、妙正寺川の谷の方向へ暗渠を辿って行くロケを行った。中間地点の宅地化で気付かなかったが、今思えば桃園川の南側から、新堀用水の注ぐ東橋へと向かうこの暗渠道の上流を探しに歩いた、ということだったのだ。
.....ともあれ、こうしてまたひとつの結論に達した。

'07年に興した自己のマネージメント・dragonlionは、幕末間近の三ケ村のために知恵と努力を惜しみなく注いだ水大工・川嶋銀蔵が、胎内掘りという偉業により完成した天保新堀用水路と線で繋がっていた、ということ。
そして、善福寺川も妙正寺川も、最終的に神田川と合流する。つまり、結果的にまたも人生の全てが水路で繋がってしまった、という事実。この地にdragonlionを選んだのは偶然ではなく、もしかしたら.....銀蔵に呼ばれたのかも知れないな.....。


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