第二章・春の小川に逢いたい
第二章・第二節/春の小川はどこから来るの?
さて、宇田川の源流となる河骨川を、春の小川の作詩者、高野辰之氏と娘さんの散歩コースに沿って(勝手に決めてるけど)歩いてみた.....と言うより、知らぬこととは言えそれは結果的にオレの散歩コースでもあったりしたワケだが、では果たしてこの宇田川の上流となる河骨川の源流、もっとも下流から遠く、もっとも高台にある、全ての流れの始まりはいったいどこなのか。

河骨川の水源はふたつ、ひとつは山手通り初台坂上バス停付近の窪地と、もうひとつは代々木4丁目の刀剣博物館前の窪地である。前者は現在丁度山手通りの首都高速4号線工事で流路が不明瞭になっているが、江戸時代の地図には池と流路がはっきりと見られる。初台坂上と言うその名の通り、ここは台地のしかも坂の上と言う高台でありながら、急激に大きな窪地が存在する。そしてこの位置から緩やかな坂となる初台坂下方面(初台川下流)へ向けてではなく、山手通りを超える形でもっと急な代々木山谷方面へ向かって落ちて行く流れが興味深い。いかに河骨川が谷底にあるかを物語っている。
京王新線初台駅と山手通り初台坂上バス停の間に位置する窪地。付近一帯が高台でありつつ、ここだけが大きく窪んでいる
窪地の底には小さいが野放しの土地もあり、柵の中にはこんな遺構が残されていた
そしてやっぱり水源地に付きものの小さな公園、初台一丁目児童遊園地。陽当たりは悪く、狭く、そして草が多い
山手通り直前の窪地。いかに極端な地形か解るだろう。流路はここから写真右方向へ向かい、山手通りを横断する
窪地から見て山手通り(写真奥上部)を渡った反対側。ひとことで表現するなら"野放し"と言う状態だ
放置された崖下に暗渠が始まる場所。両サイドの"まともな"建物の間では異様な状況と言える
右側の壁の奥は山状で、左側の古い家屋は皆玄関ではなく裏口/縁側となる。河骨川/春の小川が続いて行く
代々木4丁目の谷底部。写真奥から来た暗渠に、このあたりで写真右手からもうひとつの流れが合流する
.....河骨川のもうひとつの水源は代々木山谷の谷底にあった旧侯爵山之内豊景邸の池、である。ここには現在マンションが建っているが、なんでも10数年前まではここに建っていた家の敷地内に湧き水のある池があり、住んでらした方がコウホネを育てていたとか(コウホネは澄んだ水でなければ生息しない)。現在付近に池や流路は確認出来ないが、山手通りと西参道の間の谷底に水源地となりそうな窪地は多く見られる。そして、このあたりを歩いていると面白い看板が目に付く。
歩いていると突然電柱に質屋かなんかの案内表示のような看板が現れる。看板には"渋谷川ルネッサンス"と言う名とURLが書かれているが、ここは渋谷川を中心に暗渠化された都心の河川を復活させようと言う運動をされている方々のサイトである
道順に沿って進むと、150点以上の刀剣類を公開している刀剣博物館がある
刀剣博物館の前の電柱に"ソコ"との表記
該当場所(写真右手)には比較的新しいマンションが建っている
.....ソコって、ココ.....だよな?
ちなみにこの代々木山谷の谷底から高野邸までは直線距離にして約150mほど。
道路脇にはいかにも川沿い、と言う造りの壁が多い
一本入った路地の意味深な造りの古いアパート。玄関の前の石板が谷底の苦労を物語る
河骨川暗渠はやがて小田急線参宮橋駅付近で線路(写真正面奥)に突き当たる
線路を渡ったところには洒落た造りの骨董品の店がオープンしており、中庭に人口の池が造られていた。壁の向こうは小田急線線路、この写真左手にコカ・コーラの営業所があり、その下に河骨川が続いて行く
.....記録を辿ると、河骨川の全域暗渠化は1963年(昭和38年)に行われていた。東京オリンピック開催前年、つまりオレの誕生の前年でもある。河骨川が暗渠化された時、きっとこのあたりは既に春の小川とは呼べないほどに汚れ、異臭を放っていたことだろう。目の前がオリンピックの選手村、ではそうせざるを得なかったのかも知れない。が、暗渠化したのが日本人なら、川を汚したのもまた日本人なのだ。戦後の高度経済成長の代償は大きかった。が、そのおかげで我々が豊かな生活を送っていられるのもまた事実である。
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